Fruition で Notion をブログにした
Notion をブログにしたいぞ
Notion 便利ですよね。Notion がいかに便利かという話は今更なのでしませんが、個人ブログも Notion で書きたいなと思うぐらい便利だな〜と感じまして、どうにかブログにできないものかと思い「Notion ブログ」で検索してみたらば、出てきました。
「この記事これで終わりじゃん」と思われそうですがこれだけではありません。
Super というサービスを利用する手順が書かれているのですが、このサービスは月額利用料が12ドルかかります。趣味の個人ブログに年間144ドル(+ドメイン費用)は払えません。ということで「Notion ブログ 無料」で検索したらば、出てきました。
「この記事これで終わりじゃん」と思われそうですがこれだけではありません。
これは7ヶ月前の記事なので現状とは食い違っている箇所がありまして、ちょっとハマりました。手順の中でAレコードの 1.1.1.1
を設定する箇所ですが、代わりに 192.0.2.0
をプロキシとして追加する必要があります。CloudFlare 側の仕様が変更されたようです。
この記事はこれで終わりです。
作ったブログはどこだい
ここだよ。
読書メモ:飲茶『史上最強の哲学入門』1
こちらを読みながらのメモです。 ※ 解釈が間違っていることもありえますので、ぜひ本を読んで判断してください。
自己解釈込みの要約。
真理について
古代
プロタゴラス(紀元前485〜410)
- 真理は多角的で人・時・場所によってそれぞれ違うもの。
- どんな主張も見方を変えれば反論できる。
- たったひとつの真理など存在しない。
- そんなものを追求する意味はない。
ソクラテス(紀元前469〜399)
- 無知の知
- 知らないことは語れない。語るには、まず知る必要があるのでは?
- 真理を追求する意味はここにある。
- 知らないことは語れない。語るには、まず知る必要があるのでは?
中世
- 人間の理性では真理には到達できない。神への信仰が必要。
ルネサンス
デカルト(1596〜1650)
- 哲学の体系化を目指すため、公理を求めた。
- 森羅万象に対する懐疑
- 「我思う故に我あり」
- そんな我を作り出したのは神
- 全能の神が作り出した我の認識は完璧のはず。
- 我が認識する森羅万象はあり、それが真理であるはずだ。
- 全能の神が作り出した我の認識は完璧のはず。
- そんな我を作り出したのは神
- 「我思う故に我あり」
- 森羅万象に対する懐疑
近代
ヒューム(1711〜1776)
- 「我」は知覚の集合にすぎない。
- 我の認識は知覚の経験の集合にすぎない。
- 知覚の集合である我々が、同一の経験の集合を持っているという保証はない。
- そんなバラバラである可能性のあるもののことを真理と呼べるのだろうか。
- 知覚の集合である我々が、同一の経験の集合を持っているという保証はない。
- 我の認識は知覚の経験の集合にすぎない。
カント(1724〜1804)
- バラバラと言いつつ、共通する知識や経験はあるよね。
- それは先天的な共通の形式によって認識しているからだ。
- それならその共通の形式による認識においての真理(人間にとっての真理)と、その追求を打ち立てることはできる。
- それは先天的な共通の形式によって認識しているからだ。
ヘーゲル(1770〜1831)
- ある真理とそれに対立する真理とを争わせることで(弁証法)、より真理に近い真理を得ることができるはずだ。
現代
キルケゴール(1813〜1855)
- 一生のうちに到達できない真理に興味ない。自分にとって最も納得できる真理こそが命を賭けるにふさわしい真理だろ。
サルトル(1905〜1980)
レヴィ・ストロース(1908〜2009)
- 西洋中心の一方向にしか進まない真理への道という前提は、西洋文化による傲慢な思い込みではないか?
デューイ(1859〜1952)
- 有用性のある命題だけに注力しましょう。
- ある説に有用性があるのなら、その真偽は問わず、それは真理なのだ。
デリダ(1930〜2004)
- コミュニケーションでは、言葉などを伝えることはできても、意図をそのまま伝えることはできない。
- 受け手側の解釈がすべてなのではないか。
- 真理についても同じことが言えるのではないか。
- 人間の真理は受け手である我々の解釈がすべてなのではないか。
- 他者による再解釈が許容されるべきだ。
- 人間の真理は受け手である我々の解釈がすべてなのではないか。
レヴィナス(1906〜1995)
- どんな真理にもそれを否定する他者が存在する。
- ということは「我」のように「他者」もまた、絶対に存在するといえるのではないか。
- 他者は我にとって不愉快で理解不可能な存在だが、真理探求のための問いかけには絶対に必要だ。
- ということは「我」のように「他者」もまた、絶対に存在するといえるのではないか。
真理とは他者との問いかけに必要な幻であり、そのことこそが真理なのではないだろうか。
以下は感想。
繰り返してない?
「真理はひとつ!(神話)」 「真理は人それぞれ(プロタゴラス)」 「真理はひとつ(ソクラテス〜デカルト)」 「真理は人それぞれ(ヒューム)」 「(人間にとっての)真理はひとつ(カント)」 「真理は人それぞれ(キルケゴール)」 「たったひとつの真理に向かって進もう(サルトル)」 「進んでいく真理はそれぞれにある(レヴィ・ストロース)」 「有用だったらそれが真理(デューイ)」 「解釈ごとに真理がある(デリダ)」
また「真理はひとつ」になっていくか、すでになっているかだと思う。
これは胃カメラの感想文です
退屈な内臓だなあ
昨年末に初めて胃カメラでの検査をしてもらった。そして「退屈な内臓だなあ」と感じた。
胃カメラでは、挿入されているカメラの映像を自分も目の前に置かれた液晶で見ることができた。鼻から入っていくカメラ。細いとはいえそれなりに径のあるそれが入っていく様子が見える。「ここが鼻と口の境目か」と思っていると、「一番狭い場所は過ぎましたからね〜」という看護師さんの声がした。目からは無意識のうちに一条の涙が流れる。麻酔のおかげか痛みはない。喉をどんどん進んでいくカメラが、技師さんの腕前によってするすると操られて胃に到着した。
胃だ。当たり前だけどドキュメンタリーや図鑑で見たことがあるやつ。まんまあれだった。どこにも特徴は無いように見える。落書きもなければサインもなくシールも貼られてないし、バンクシーも来ていなかった。
正直がっかりした。もちろん病気があってほしかったわけじゃないが、自分の内側にあるのがこんなにもつまらない、普通の内臓だったとは思っていなかったようだ。自分でもそう感じているのが意外だったが、そうだった。「キレイな胃ですね〜」という技師さんの声がした。技師さんが手元でなにか操作をすると、カメラの映像が一面液体で覆われた。どうやら見やすくするために何かの液体で洗浄しているようだ。カメラの胴体が胃の内側に触れると、触覚がないはずの胃から違和感が伝わってくる。気持ち悪いなかで同時に「その調子だ」とも感じていた。
自分の内側のパーツを見たことがあまりなかったので、面白いと同時に神秘性が失われたような気分だった。
独自性なんてそうそうありませんよね
外面的にも内面的にも、その人独自なことなんてそうそう無い。特徴のある肉体を持った人はこの世の中に必ず2人以上いるし、独特な思想を持った人もそうで、何言っても誰かが「わかる〜」と言ってくる(本気で言ってる?)。神秘性で覆ってるうちは自然科学的な目で観察できてないんだなあとも思うので、やっぱり胃カメラはやってみてよかったな。頭の中にも入れてみたい。
でも頭の中にはバンクシーがいたら嫌だな。
読書メモ:アリストテレス『弁論術』4
こちらの続きです。
第2章始まり。
- 弁論術はあらゆる対象を取り扱うことができる。
- 説得の証拠立てには2種類ある。
- 弁論術によらぬ手段で得られたもの。
- 弁論術によって得られるもの。
- 弁論術での説得には3種類ある。
- 1つ目は人柄に依るもの(信用できる人の言うことは信じられるよね)
- 2つ目は聞き手の心がある状態になることでなされるもの(感動によって動かされることであり、「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」で語られていること)
- 3つ目は言論によるものだ(言論の内容を聞いて理解し納得すること)。
- 以上の3種類あるので弁論術は、人柄や悪について考えられる者、感情についてつぶさに考えられる者、論理に達者な者が得意とする。
倫理学と政治学に何の関係が?と思った。文末注によると、「倫理学も政治学も行為の目的として最高善を求める」とのことだった。なるほど。最高善の追求が個人の範囲であれば倫理学、公共の範囲であれば政治学ということらしい。これらの共通点について考えたこともなかったので新鮮に感じた。そもそも、おそらくは実現された政治へのイメージに引っ張られているせいで、政治学が最高善を求めている印象がなかった。
弁論術が政治学を装い、弁論家たちが政治家を装っている理由として、無教養や虚勢、弱さが挙げられているのが面白い。個人の最高善追求がそんなにも自信を持って語れないことなんだろうか。でもたしかに、「〜すべきだ」と語るとき、それが個人やその周辺に閉じたものとして語る場合と、公共の問題として語る場合とでは、後者のほうが責任が曖昧になって安心できるのかもしれない。
なぜなら、弁論術は、初めにも言った通り(二二頁参照)、弁証術の一部分であり、同類だからである。(34ページ)
出たー!ここか。弁論術は弁証術と「相応ずる」関係のはずが、「弁証術の一部分であ」る(弁論術∈弁証術)と言っている部分。
- 弁証術での証明方法は、帰納、推論(演繹)、見せかけの推論とがある。
- 弁論術での証明方法は、例証、説得推論、見せかけの説得推論とがあり、それぞれ弁証術のものと対応している。
日本語だと推論と説得推論とが混ざっていてわかりにくいが、原文を予想するにおそらく帰納、推論、例証、説得推論はそれぞれ、説得推論の場合が enthymēma であるように、一語での表現なのだろう。そして弁証術と弁論術との用語の違いは、帰納と演繹とがいずれかの文脈で語られるかの違いしかないという意味だと思う。
文中で触れられている『トピカ』も読んでみたくなった。
成人の日
18歳で成人と言われてもな
そう思っていることだろう。同じように筆者は20歳で成人と言われてもなと思っていた。法的な取り扱われ方が変わっても、具体的に生活の中で何かが変わるわけでもなかったし。
自分一人で満足に何かができるような社会的経験を積んでいるかどうか、あれからいくつになっても自信がない。そういう意味では18歳も20歳も37歳も違いは無い。親からの扱われ方も親に対する接し方もそう大きく変わらない。
しかし、法的な扱いが変わることは他人からの扱われ方が変わるということで、本人の思い以上に大きい変化だと言える。本人にどれだけ変わったつもりが無かろうと、周囲はきみを成人として扱うし、成人として利用しようとする。成人として「社会に出る」ということは、成人である他人を利用できる代わりに、成人である自分が利用されるということなんだろう。主体的に社会を利用して利用されるようになる日、それが成人の日で、きっとそれが成人式。
筆者は成人式に参加していないので、何が話されるのか知らないけど。
成人の日に何をしていたか
京都に三十三間堂というお堂がある。ここは長さが33間(約121メートル)で、その長さを利用して弓の名人たちが腕を競い合う場所として利用していた。1日のあいだに出来るだけたくさん弓を引くのだ。わかりやすい。片側からもう一方へ向けて、天井や軒を避けて矢を放ち、通すことができれば良い。
この「通し矢」と呼ばれる行事は江戸時代に始まり、和佐大八郎という人物が13,053本を引いて8,133本を通したのが最高記録だという。肩はいったいどうなってるんだろう。
これに因み、現在では成人の日に本堂の庭で60メートルの遠的大会が行われている。成人になる人は申し込めば参加することが出来るので、成人式が重なってしまった弓人は、成人式よりもこちらに参加することもある。
筆者もそうだった。もちろん13,053本を1日中引き続けるわけではないが、良い記念にはなったし、三十三間堂に不思議な親しみを覚えるようになったし、何かの区切りにもなったように感じた。きっと、最高記録を達成した和佐大八郎ほどではないが。
そういえば彼は、記録達成当時18歳だったそうだ。
読書メモ:アリストテレス『弁論術』3
こちらの続きです。
説得推論と論理的推論
一読してよく理解できなかったので転記する。
ところで、言うまでもなく、技術の名に値する弁論術の研究は説得の方法に関わるものであり、一方、説得方法は一種の論証である(なぜなら、われわれが最も信を置くことができるのは、それが論証されていると解する時だから)、しかるに弁論術における論証というのは説得推論のことであり、それは、一口に言って、説得の中でも最も有力なものであるが、この説得推論も一種の推論であるし、また、推論の全般に亘ってくまなく考察するのは、全体か、それとも或る一部かはともかく、弁証術の仕事であるから ― それゆえ、弁証術における推論がどのような要素からどのように組み立てられるかを最もよく見究めることのできる者は、また、説得推論がどのようなものを対象にし、論理的推論と比べてどのような違いがあるか、この点の知識を手にする時には、説得推論についても最も精通した者になるであろうことは明らかである。なぜなら、真なるものを見るのも、それに似ているもの(おおよそ真なるもの)を見るのも、精神の同じ能力によるのであるし、同時にまた、人間は生まれつき真なるものを目指す素養を十分に備えており、ほとんどの場合、実際に真理を手に入れているのであって、したがって、一般に真と思われていること(おおよそ真なること)にうまく行き当たるのも、真理をうまく射当てることも、精神の同じような状態と言えるからである。(岩波文庫 アリストテレス『弁論術』26〜27ページ)
うーん難解だ。途中のハイフンのはたらきがよくわからないし、「それゆえ、」がどこまでにかかっているのかもよくわからない。試みに構造化しながら書き換えてみる。
- ところで言うまでもなく、技術の名に値する弁論術の研究は説得の方法に関わるものである。
- その説得の方法は一種の論証である。
- なぜなら我々はそれが論証されていると理解するときにそれを信用するからだ。
- その説得の方法は一種の論証である。
- 弁論術での論証とは説得推論のことである。
- それは説得の中でも最も有力なものである。
- これも一種の推論である。
- 推論の全般にわたってくまなく考察することは、弁証術の領分である。
- それゆえ、弁証術における推論がどのような要素からどのように組み立てられるかを最もよく見究めることのできる者は、説得推論の対象についてや、論理的推論との差異についての知識を手にしたとき、説得推論について最も精通した者になるだろう。
- なぜなら、真なるものを見るのも、それに似ているもの(おおよそ真なるもの)を見るのも、精神の同じ能力によるからだ。
- 同時にまた、人間は生まれつき真なるものを目指す素養を十分に備えており、ほとんどの場合、実際に真理を手に入れているからだ。
- したがって、一般に真と思われていること(おおよそ真なること)にうまく行き当たるのも、真理をうまく射当てることも、精神の同じような状態と言えるからだ。
- それゆえ、弁証術における推論がどのような要素からどのように組み立てられるかを最もよく見究めることのできる者は、説得推論の対象についてや、論理的推論との差異についての知識を手にしたとき、説得推論について最も精通した者になるだろう。
最後の3行とその前とのつながりがよくわからないが、それ以外はわかりやすくなった気がする。
「技術の名に値する弁論術」とは、要するに前説までの「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」で述べられている以外の弁論術のことだろう。それは説得の方法に関する技術であり、一種の論証である。弁論術においての論証とは説得推論のことを指し、一種の推論である。推論であるならそれは弁証術の領分である。そのため、弁証術における論証のエキスパートは、弁論術における説得の方法(説得推論)の対象や論理的推論との差異の知識を得たとき、説得推論のエキスパートにもなれるのは明らかである、ということだろう。
最後はこういうことだろうか。「弁証術における論証のエキスパートが、説得推論のエキスパートにもなれるのは明らかだ。」の理由説明として、弁証術が「真なるものを見る」こと、弁論術が「それに似ているものを見る」ことだとすれば、前者と後者は同じ精神の働きだからだと。そして真理探求の能力を人間は備えているので、弁論術の成果である「一般に真と思われていること(おおよそ真なること)にうまく行き当たる」ことと、弁証術の成果である「真理をうまく射当てること」とがやはり同じ精神の状態だと言えるということだと。
こうしてまとめてみると少し理解できた気がする。この節を一読したのみでわかる人はいるんだろうか…。セクション名の「説得推論と論理的推論」のうち、論理的推論が弁証術での推論のことで、要するにこのセクションで言っているのは弁論術と弁証術での推論のことだということに気付くのは、初見では難しそう。前説は議会弁論と法廷弁論についての話だし。
説得推論(enthymēma)
説得するために行う推論のこと。巻末注によれば弁証術における演繹にあたるそうだ。
弁論術の有用性
「技術と呼ぶに値する弁論術」は以下の点において有用である。
- 悪しき弁論によって適正でない判定がなされるのは避けられるべきだから。
- 相手に真の正しさを悟らせるような厳密な学問的知識は、それを相手に教えることはできても、教わることを拒むような相手を説得することはできないから。
- 説得においては、問題を多角的に見て適正に判断することが求められるから。
- 言論をもって自分の身を守ることができないのは、恥ずべきことであるから。
「身体をもって身を守ることよりも、言論をもって身を守ることのほうがより人間に特有なことなのだ。」という主張になるほどと思わされた。
ここまでで第1章の序論が終わり。
- これまでの弁論術はなぜダメか
- この本で説明する弁論術は何が違うのか
- 弁論術と弁証術とは何が違うのか
- どういう人に向いてるのか
- どうして今、弁論術なのか
こんな感じの内容だった。この構成、割と現代のハウツー本に似てるところがある。
読書メモ:アリストテレス『弁論術』2
こちらの続きです。
「議会弁論は術策の余地がない」
アリストテレスは、議会での弁論と法廷での弁論とが扱う事柄が同一であると考えている。しかしながら、彼が述べるところでは当時の弁論家たちの書く弁論の技術書はもっぱら法廷弁論について語るのに終始している。議会弁論のほうが公共性があり高尚であるのにも関わらず。それはなぜか。
彼の考えでは、法廷弁論はそれを聞く裁判官たちにとって他人事だからだ。
「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」には、弁論を聞く者の同情を惹いたりウケを狙ったりして聴衆を取り込む方法が書かれている。しかし議会弁論の場合、それを聞く議員たちは議論の当事者であり、弁論の内容について事実以外の事柄(虚偽や誇張など)が入り込まないよう用心している。そのため、弁論によって取り込まれる余地がない。一方で、法廷弁論を聞く裁判官たちは議論の当事者ではない。そのため議会弁論での用心が働かず、弁論によって取り込まれてしまうのだ。
しかしながら、裁定を公平に、国益に沿った形で行うことができるだけの能力や思慮に富んだ人間は少ない。そのためそういった人間は立法者になり、その法は可能な限り個別の事案による振れ幅を減らしておくべきであり、その他大勢の凡才たちが裁判官となって、その少ない振れ幅を加減する役割を担うべきなのだそうだ。
ところで先述の通り、「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」にはほとんど法廷弁論の話しか出てこないそうだ。ということはつまり、上記の理想は叶えられていなかったということなんだろうなあ。
当事者でない問題についての議会弁論
もしかして当時の古代ギリシアの法廷では、議員にとって当事者でない問題は議場に上らなかった(上りにくかった?)のだろうか。
現代の議会では、議員が直接の当事者とならないような問題も議場に上る。そしてしばしば参考人が呼ばれるものの、やや的外れな決定がなされることがある。思えばこれは、他人事だからなのだろうか。
また現代の議会では、「弁論を聞く者の同情を惹いたりウケを狙ったりして聴衆を取り込む」ことが行われているように思う。これはテレビカメラが入っているときにだけ行われる印象があるので、聴衆としては視聴者を想定しているのだと思うが、視聴者たちは直接的に目の前の議論を左右できる立場にはない。そう考えると結局のところ、目の前の問題が多くの議員たちにとって他人事だからなのかもしれない。
ひるがえって日常生活について考えると、自分が相手の語る事柄や事実からよりむしろ、語り方や必死さで判断しようとしているとき、それはやはり自分にとって他人事だからかもしれない。