なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

連続を失敗

ある夜、会社から帰ろうとして玄関で靴を探したとき、そこに自分の靴が無いことに気付いた。

決していじめられているわけではなくて

今働いている会社はいわゆるオフィスビルではなくかなり広めの一軒家なので、玄関では靴を脱ぎ、社内はスリッパで歩く必要がある。そのために帰宅の際には玄関で自分の靴を探して履くのだが、そこにあるはずの自分の靴がなかった。いや正確には、自分の靴だと思う靴はあるが、その確信が持てなかった。

手に取り、何度か見てみる。違和感は消えない。こんなタグは付いていたっけ。こんな色だったっけ。こんなにロゴは白かったっけ。ソールはこんな色だったっけ。

履いてみる。でもやっぱり変な感じがする。ニューバランスゴアテックスが使われているものだから、十中八九これだと思うし、社内にほかに28センチの靴を履く人がいたとしても、まったく同じ靴を買って履いている可能性は非常に低いはずだ。そう考えても、やはり他人の靴を履いているような感覚が消えなかった*1。他に自分の靴だと思えるものがなかったので、「これは自分の靴だ」と言い聞かせて履いて帰った。

あの夜から1週間ぐらい経過したが、誰からも「自分の靴がなくなった」という話は聞かない。やっぱり自分の靴だと思われるが、違和感はうっすらとまだ自分の中にある。

信号を待っているときの違和感

まだ違和感の話は続く。信号を待っているとき、そしてそれが青に変わったとき、「本当の自分は痴呆老人で、自分自身をまだ思考がしっかりしている30代なんだと思い違えているだけなんじゃないか」と考えることがある。つまり目の前の青信号は実際には赤であり、現実の自分は今まさに死のうとしているのだ。

実際にはそうでないことはなんとなくわかっている。しかし、そうでないと証明することももちろんできない。自分の認識している現実を現実として受け止めて生きていくことしかできないのだとしたら、なんと我々は認識の前に無力だろうか。そんな頼りの認識が揺さぶられたとき、どうしようもなく振り回されてしまうのは、しかしながらさもありなんという思いがする。もはや虚構の青信号を信じ、現実の轢死を受け入れるしかない。

それからというもの、赤信号が青に変わると、同じように自分を確かめてしまうようになった。その確認に意味はないけれど。

知っているものしか見られない

世のメジャーが紙の辞書から電子辞書に移りつつある昨今*2、「電子辞書では自分が引きたいと思った項目しか見られない。いっぽう紙の辞書なら、同じページに並んでいる項目も一緒に目に入る。そのぶん知識を広げることができるのに、機会損失になってしまう!」というような話をよく耳にする。

自分は「電子辞書も紙の辞書も良し悪しだから、使い方にあわせて選べばよい。すべてが紙または電子になる必要はない」と考える、平凡で、面白みのNASA*3を持ちあわせた人間だが、ここではその是非について話したいわけではない*4

かつて人類が Yahoo! 上で検索を行っていたころ、Webサイトはちょうど図書館の本のようにジャンルごとに分類され、並べられていた。利用者は見たいジャンルのページを開き、そこに並んだ Webサイトから見たいものを選んでアクセスしていた。ときには隣に(上や下に)並んでいるWebサイトが気になり、そこを見ることもした。目的のもの以外のWebサイトは、自分の知識の外にあるものだった。

現在はご存知 Google にWeb検索が取って代わられ、自分の知っている単語の組み合わせを用いて情報を検索するようになった。知識の外にあるものは、洪水のように誰かの興味が流れていく TwitterFacebook などの SNS、または Wikipedia などの情報が羅列されているWebサイトで摂取するように、自分の場合はなっている。

かつて誰かが「これからの時代はなんでも検索できるから何も覚えなくていい」と言説しているのを聞いたが、実際にはそうはいかず、「少なくとも検索するための単語は覚えなくてはならない」という状態になっているように思うし、その検索語の種類や使い方を適切に身に着けていることが、検索したいものにたどり着くまでの速度に影響しているような気がする。また、言葉についての知識は、検索結果から情報を読み取るためにも重要だ。人間が言語を用いる限り、言語能力は重要であり続けるだろう。

いったい何の話だ

時間が連続しているものであり、左(または後方)からやってきて現在を追い越し、右(または前方)へ流れていくというイメージや感覚は、信じるに足るものなんだろうか*5

ふいに目がさめて、状況を確認し、たとえばそこが祖父母の家で、いとこたちがまだ中学生で、自分は肉体的に7歳程度、階下から母親の呼び声がし、居間で「今日のお昼は外で食べよう」という会話がされていたなら、さっきまでの自分の現実はじつは夢であって、こっちが現実なんだと、少なくない違和感を押し込めてしまう可能性が無いと言いきれない。

靴を失くすまでの自分は、可能性が無いと言い切ったかもしれない。信号が青に変わるまでは。

*1:おもしろいことに、人の靴だと思うとなんか汚い感じすらしていた

*2:もう移行は完了したのかもしれないけど

*3:アメリカ航空宇宙局

*4:電子辞書でも単語が画面に並んで出てくるものもあるし

*5:ちなみにその『時間』は青い