なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

正しさの誤り

お前は間違っている!!!

と言うとき、人は一定の快感を得ているように感じる。いや正しくは、「お前は間違っている」と言えるような状況であることに気がついたとき、その人は快感を得ているように思う。その状況は言い換えれば、自分が正しいという確信を得たときだ。その確信で相手の間違いを論破し、考えを改めさせ、なお行動を改めさせることができて、それでやっと快感を受け取ることができる。

そのとき、その確信の依拠する先にある判断基準について、疑うことは少ない。それを信じることによって確信が成り立つからであり、多くの場合その判断基準は自分の経験や知識で作り上げたと考えているものだからだ。自分で作ったものだからこその愛着がある。それに、その確信の弱点もまたその判断基準であるという自覚があるので、そこを自ら疑うことで確信を揺らがせたくないという気持ちもあろう。

しかしその価値判断基準がいかなる相手、いかなる場所、いかなる時代、いかなる場面においても常に正しいかといえば、もちろんそうではない。もし絶対的に正しい事柄があったとしても、それを証明することはできない。

文法は悪か

ここで、唐突に話が変わる。

自分の中には、「学校教育で習う国語文法に従うべきだ。それに反する日本語使用は許されない」という考え方に対するアレルギーがあった*1。ここからは、そのアレルギーを持つに至った理由を説明する。

言語が先か文法が先か

まず文法は、自然に存在する言語を観察し、その法則性をまとめたものだ。はじめに言語があり、それから文法がある。決してその逆に、まず文法を決めてから言語が作られたわけではない。その証拠に、文法上おかしくないのに、実際の使用では違和感のあるような使い方は多くある*2。それなのに、実際にすでに一部の人々の間では違和感なく使用されている言葉を、「それは文法上おかしい」と糾弾するむきがある。しかし当然ながら、私たちは普段文法を意識して言葉を使っているわけではない。それなのに、自分の覚えた違和感の理由を「文法上のおかしさ」に求めるのは間違っている。この違和感の正体は、単なる耳慣れなさ、見慣れなさにすぎない。

例えば、「食べれる」のような「ら抜き言葉」を間違いだと指摘する意見がある。「それは文法上間違っている!」ともよく言われている。その逆に、「ら抜き」を擁護する声もある。「『られる』の用法が4つ*3もあってややこしいからだ。『れる』なら可能に限定できる」という意見がある。どちらの言うことも理解できるし、自分はむしろ後者のほうが論理的に筋が通っていて好きだった。

だが待ってほしい。前者も後者も文法を念頭に置いて議論しているが、私たちは本当にそんなことを考えながら普段会話したり物を書いたりしているだろうか。じつは前者は「食べれるなんて聞き慣れないから迷惑だ」、後者は「『られ』は言いにくい」、あたりが本当の気持ちなのではないだろうか。少なくとももし自分ならそうだ。

この「ことばが先、文法があと」という主張が、まず第一の理由だ*4

文法は変わらない

理由はまだある。国語文法についての考え方だ。

学校で習ういわゆる学校文法は、橋本進吉という国語学者の確立した橋本文法*5をベースに、1943年に文部省によって作られたものだ。それから65年も経過しているが、そのあいだずっと変わっていない。おそらくそのために、一般的には「文法は変わらないものだ」という認識がある。

しかし一方で、言葉は変化してきている。たとえば私たちは「食べてる」「見てる」のような言い方をするが、これは助動詞「いる」の「い」が省略された使い方で、文法的に正しくは「食べている」「見ている」とすべき言葉だ*6。また、可能の意味で使う「行ける」は、古くは尊敬の「行かれる」と同じ形だったが、「行ける」に変化した。言い方だけでなく、意味も変わる。「敷居が高い」は今では「ハードルが高い」という意味で使用するが、もとは「後ろめたいことがあって行きにくい」という意味だった。表記も変わる。「独壇場(どくだんじょう)」はもとは「独擅場(どくせんじょう)」と表記・発音した。それが誤記により「独壇場」として広まった。

このように、言葉はそれを使う人々の認識によって変化していく。それは、日本語のような自然言語を構成する、音の組み合わせや文字などが人工的なものであり、使用者同士の取り決めに基づくものだからだ。例えば「一」を「いち」と読み、その音や文字が「ひとつ」という意味を持つことにする、というのが使用者どうしの共通認識だから使えるのだ。そのために、ある変化が、ある集団の中で、その構成員の持つ共通認識が変わるほどに広まってしまえば、違和感なく使えるようになる*7

それなのに学校文法は変化しない。それがために「文法は変わらない」と考えられ、おそらくそのせいで「絶対に変わらない正しいもの」と思われてしまっている。ひとつ目の理由の中で挙げたように、文法のほうがあとから作られたものにすぎないにも関わらず、文法は言葉の変化を制限しようとする。ましてや、見慣れなさや耳慣れなさを理由に、それを制限するための建前として引き合いに出される。ところがそのルールは65年も前に作られた古いもので、実用に即しているとは言い難い。

この「実際の言語使用に追従しない文法」が、第二の理由だ。

それでも文法は悪じゃない

以上ふたつの理由から、自分の中には日本語に関する「文法アレルギー」とも「正しさアレルギー」とも言える感情が作られていた。

そのため、「文法上おかしいみたいですよ」とか「許されるべきではない」とかいう言い方や、「本来そういう意味ではないから使うべきじゃない」という言い方が気に入らず内心ではやや感情的になってしまい、しかしなるべく冷静に「文法は後付けにすぎないから、つねに遵守しなくてもいいんですよ」という意見を伝えてようとしてきた。じつはこの行動については今もあまり変わらない。ただ、考え方は変わった。文法上のおかしさを引き合いに出すのは間違いではないし、許されるべきではないと感じるのもその人の一意見だから、その人の持つ判断基準では正しい意見なんだなと思うようになった。それはなぜか。

判断基準VS判断基準

冒頭の話に関連するかもしれないが、正しさや誤りが依拠する先にある判断基準は、その判断をする人によって異なっている。きっと、この判断基準のうちのひとつが「正しい文法」であり、また「文法に依らないということ」でもある。そう考えるようになったことで、自分の感じ方が変わった。「文法上おかしいみたいですよ」とか「許されるべきではない」とか、「本来そういう意味ではないから使うべきじゃない」とか言う人々の判断基準が「正しい文法」ということであり、自分はその集団の外にいる、別の判断基準を持った人間なのだと理解した。

これは言語そのものにも似ていて、ある集団内での共通認識の有無によってその言葉使えるかどうかが成立するのと同じように、ある集団内での共通認識としての判断基準が存在し、異なる判断基準を個々の集団が持っているのだろう。そういう状態を理解することで、「学校文法を信じること*8」をひとつの考え方として受け入れ、少なくとも感情的になってしまうことはなくなった。

お前の考え方もわかるけど、俺の考え方は違う!!!

というわけで、「絶対正しい判断基準はないんだ」という価値判断基準におぼれてしまっていた自分について自覚しました、という話でした。ついカッとなってしまうと「相手を理解しよう。そしてあわよくば反駁しよう」という気持ちがわいてしまうのは、人と建設的な会話をするうえでよろしくないです。わかっていたつもりだったんですが、身にしみていませんでした。

かしこくなりたい。

*1:いわゆる「美しい日本語」や「正しい日本語」などという言説に対するそれである

*2:「食べ始める」を「食べ始まる」と言う、など

*3:尊敬、自発、可能、受け身の4つ

*4:補足しておくと、まったくルールの無い状態で言葉が作られたとも自分は主張していない。おそらく生物的なルールが存在し、それに基づいて言葉が作られていき、人工的に作られたルールの中からさらに発展していったのだろうと推測している。そうでなければ「文法」としてまとめられるような法則性が、様々な言語において作られるのは不自然だと感じるからだ

*5:他にも文法はいくつかある

*6:いわゆる「い抜き言葉

*7:「市民権を得た」という状態

*8:「学校文法そのもの」のことではない