なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

人間扱い

ある時、友人と池袋の中華料理店で食事をしていたところ、そこにあったテレビではバラエティ番組が流れていた。それがやがてCMに切り替わり、友人が言った。「日本のテレビは番組とCMとの区切りがなく、急に切り替わる。これは悪いと思う。見ている人を人間扱いしていない」と。

正直ピンと来なかった。というのも、「今からCMが始まります」と言われても、その逆に急にCMに切り替わっても、いずれにしろ僕らは同じようにテレビをじっと見ているだろうからだ。間に予告があろうとなかろうと、ただテレビの映像を視聴し続けることに変わりはない。もしCMが嫌ならいったんテレビから目を離せば良いが、それもまた、予告があろうとなかろうと変わりないと思ったのだった。

コンビニにて

それから数日後、コンビニで、自分の前の客が店員さんに対して終始無言を突き通すのを見かけた。品物を出して、バーコードを読み取ってもらい、合計金額を告げられたら、お金を出して、店員さんが商品を袋詰めするのを待ってからそれらを受け取って、店を出る。確かに無言で済ませることができる。

一見すると乱暴な態度の客にも思えるが、もしかしたら店員さんもそのほうが楽なのかもしれない。そのときにはそんなことを考えた。

路上にて

また別の日、やや狭い路上で、女子大生風の3人組とすれ違うことがあった。向こうは道幅いっぱいに広がり、完全に対抗する自分の進路を塞いでいる。しかしこちらを見ることもなく、気付いているのかいないのか、結局こちらが街路樹の植え込みに踏み込んで、かろうじて避けることができた。彼女たちは歓談しながら過ぎ去っていった。

東京のような人口の過密した場所では、必ずしも誰もが自分の都合を考えてくれるはずがない。そんな場所で相手のことを考えていると不平等だし、相手の都合を考えて行動していたら、それが自分の不都合になってしまうこともまたあるだろう。だから、彼女らのように他人に対して無関心な態度を貫くほうが、ここでは上手くやっていきやすいのかもしれない。そのときはそんなことを考えた。

飲食店にて

今日、飲食店で、自分の持ち帰りの注文ができあがるのを待っていたところ、店員さんがレシートの番号を呼び上げた。自分の番号ではなかったのでそのまま観察していると、店員さんが二度三度、続けて声を上げた。しかし、それでも誰も受け取りに来なかった。それから四度目でやっと親子がやってきて、袋を受け取ったのだが、店員さんが「○○番のお客様でしょうか?」と尋ねるのに対し、親子はひったくるようにして無言で袋を取ると、そのまま立ち去った。

ここで、友人の言葉を思い出した。

人間扱いしていない

思い返せば、コンビニの無言の客も、3人組の女子大生風たちも、飲食店の親子もみな、他人を人間扱いしていない。テレビが突然CMに切り替わるのも同じことだ。相手の存在や、発する言葉、やりとりをあえて無視している。そのほうが自分に考えるべきことが少なく、かつ(相手の配慮のおかげによって)自分のしたい作業の流れが妨げられることもないので、自分にとっての都合が良いからだ。

自分さえよければ、相手がどうだろうと構わない。それが「人間扱いしない」ということだと、ようやく気付いた。

そしてそれ以来、「果たして自分は人間扱いされているだろうか」ということに意識が向くようになった。