なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

短歌の話

2019年の末ごろから、1日1首というルールで短歌を作っています。今日(1月19日)でちょうど119首目。ここまで作ってきて、なんとなく思ったことを。

良い短歌

良い短歌ってどういうもののことなんでしょうか。自分の好みの短歌を仮に「良い短歌」とするなら、「読み手が追体験し、感情を共有できるもの」だと思っています。

読み手が追体験し、感情を共有できるもの

短歌は文字数が31文字と限られているので、意味や意図を説明し尽くすことができません。読む側もそれはわかっているので、自ずと言外のそれらを読み取ろうとするものだと思います。

シモーニデースの曰く「絵は言葉を使わぬ詩、詩は言葉で描く絵である」、ホラーティウスが詩論で曰く「詩は絵のごとくに(ut pictura poesis)」。これらの言葉は、詩が読み手の頭の中でイメージを描くものだということを示しているのでしょう。つまり、言外の意味や意図は、そのイメージの中、あるいはそれを見る主人公(読み手)の感覚の中にあるべきものだと思います。

このイメージが得られるような文は、かつて修辞学の述べた「エクフラーシス(ekphrasis)」すなわち視覚筆写であると言えます。それがデュナミス(dynamis)として成り立てば、読み手に主人公を理解させ、主人公に寄り添った追体験の結果、読み手が特定の感覚を得られる状態、つまりエネルゲイア(energeia)が成立する。言外の意味や意図を読み手に感じてもらうには、この状態を作り、イメージと追体験と共感を得る必要があります。

なかみがだいじ

ただ、それだけで良い短歌として十分かというと、きっとそうでもありません。たとえば短歌を作ることがお客にラーメンを提供することなのであれば、いろんな準備を経てラーメンを食べてもらえるまでが、短歌で言う追体験や共感が得られた状態を指すはずです。食べてもらうところまで行ってやっと、よりおいしいラーメンを食べてもらうこと、つまりより良いイメージや追体験や共感を持ってもらうことについての追求ができる。そして真に重要なのはその部分だと思います。

では良いイメージや追体験や共感とはそれぞれ何なのでしょうか。良いイメージは「エクフラーシス(視覚筆写)によりもたらされるもの」と書きましたが、つまりはそのままギリシア語源の通り、「はっきり述べる」ということだと思います。明確に述べられるからこそ、読み手は安心して具体的なイメージを掴むことができます。

具体的なイメージは、より具体的で鮮明な追体験を行うことを読み手に保証するものです。同じイメージを共有することで、読み手は、自分自身を主人公にしたり、あるいは書き手を主人公とした情景を頭の中に描くことができます。

それは実際の書き手や書き手の見たものとはほとんどの場合で異なりますが、視覚情報すべてを正確に叙述することは非常に困難で、31字ならなおのことです。それに、良い共感のために、書き手と読み手のイメージが完全に一致している必要はあまりありません。詩によって得られる共感は、あくまで読み手の想像する共感であって、その答え合わせをする機会はあまりなく、それでいて「良い短歌」は成立しているからです。

きっとそれが短歌

書き手は、31文字の言葉だけを自分の支配下に置いています。そして読み手側はそれを受け取って、自分の頭の中にイメージを思い浮かべる。そのイメージや追体験が二人の間で共通しているかどうかは別として、二人の間にうまれた感情が一致したり、近似したりするとき、そこに短歌の書かれる意味がある。それが短歌を通じての共感だと思います。

そして共感の中でも良いとされるのは、読み手にとってありふれていないもののことでしょう。読み手にとって今までにない感情、懐かしい感情、着目せず見過ごしてきた感情を呼び起こすような短歌が、良い短歌なのではないでしょうか。

そういう短歌が作れるようにもう少し続けてみて、そのうち気が向いたらどこかに発表してみようと思います。それでは。