東京2007
明日東京から関西へ引っ越すので、書いておくかとなった。
東京には、2007年2月から暮らしていた。かれこれ14年近く住んでいたことになる。今年で11回目の26歳になるので、上京当時は22歳だった。
22歳といえば、20歳の頃、その1年前から両親が終わっていたことを父親だった人間から手紙で一方的に打ち明けられ、その衝撃とそれを言い訳にした怠惰が2年間続いた結果、ついに大学を中退した年齢だ。
その後、就職先が見つけられないでいたところに、親戚のツテで東京渋谷の医療系ベンチャー企業*1を紹介してもらい、夜行バスで面接に行ったところ、交通費として1万円くれたこともあって、そのまま入社した。
その会社には、2011年10月までいた
渋谷で医療系ベンチャー企業と言えば聞こえは良いが、その収益のほとんどを出会い系サイトのシステム受託開発に依っており、実態は出会い系ベンチャーであった。とはいえ出会い系以外の案件も少なからずあり、Web系サーバサイドのあれこれ(LANケーブル編みなど)は一通り経験させてもらった。
当時住んでいたのは世田谷区喜多見で、最寄り駅の成城学園前駅まで徒歩20分で割ときつめの坂道が続く場所なのに、家賃はそこそこ取る優良物件だった。
当時付き合っていた彼女は大阪におり、当初は遠距離恋愛をしていたが、やがて彼女も東京の企業に就職して上京。それからは千葉県船橋市との中距離恋愛になった。当時の自分は経済的にも人間的にも非常に完成度が低く、今でもよく言われることだが、今までよく一緒にいてくれているものだと思う。
東日本大震災が起きたり、部屋に空き巣が入ったり、ニコニコ動画に「歌ってみた」やゲーム実況を投稿したり、経済的に終わりかけたり、いろんなことが盛りだくさんな4年半だった。
その後、転職と引っ越しが起きた。
次の会社には、2013年2月までいた
SIer*2に転職した。いわゆる3ヶ月研修を経て現場に投入された元請けの、自分より給料だけが高く技術力は低い人たちの指示に従って、指示通りに誤ったせいで謝罪をし、指示出し君たちだけが次の現場へステップアップ、というような1年間だった。
一方で、引っ越し先は練馬区谷原にした。同時に彼女との同棲を始めた。
上記のような仕事環境に向けて、毎日練馬から淡路町(40分)、または品川(50分)、時には辻堂まで(1時間50分)満員電車で通勤しており、もともと電車が好きでない性質も手伝って、すぐに心がすさんだ。同棲生活も良いものとは言えず、それなりに楽しさはあれど、全体的には苦労をかけてしまっていた。
彼女に背中を押され、自分でもこのままではいかんと思い、転職を決意した。運が良かったこともあり、すぐに次が見つかった。
退職日を決めて届けを出すと、これまで本社で新聞を読むだけが仕事だと思っていた新幹線通勤の部長との面談が入り、会議室では目の前で堂々と労働基準法違反が繰り返された。しばらくして社長も現れた。以前の酒の席での経験から、社長はもっと話が通じると思っていたので、もう少し踏み込んで話してみた。結果はやはり、労働基準法違反の提示だった。
とはいえ彼らの言葉に法的な強制力がないことはわかっていたので、そのままこちらの要求を告げ、円満に有給休暇を消化して退職した。時季変更権という言葉も覚えた。
次の会社には、2016年9月までいた
転職してDeNAに入社した。
今からすれば、きっと期待半分・人手不足半分だったろうと思う。入社してすぐに自分の実力と求められるものとのギャップに気がついたが、そのぶん目標が明確になり、結果としてここで受けた恩恵はとても大きかった。この会社では「ポジションが人を育てる」とよく言われており賛否両論を生んでいたが、自分の場合は図らずもその通りだった。
技術面以外に、「善良な人たちの中でチームで連携して仕事をすること」を覚えた。そのためにどうすればいいか、どうあるべきかも学ぶことができた。技術よりもこちらのほうが重要だったかもしれない。それに、多くの友人にも出会えた。
彼女と結婚したのもこの頃だった。その後、電車通勤が煩わしくなり、渋谷まで徒歩通勤ができる代々木に引っ越した。代々木の町は渋谷からも新宿からも近く、明治神宮も代々木公園もあって、生活がとても充実したように感じる。騒がしさも、当初は気にならなかった。
いろいろあって、3年半後に転職した。
そして今
DeNAでの縁で声をかけてもらい、今はまたベンチャー企業にいる。はやいもので、もう4年が過ぎた。
ここでは前職以上にいろんなことをしている。社内のネットワークを見直したり、餃子を焼いたり、虫を駆除したり、肉球を押すとたのしい反応があるデジタルサイネージを作ったり、ポスターを手売りしたり、壁(物理)を作ってもらったり、その中でまた餃子を焼いたり、日本語について考えたり、ペットの命を救う手助けをしたり…。
転職当初は渋谷に職場があったので、徒歩通勤を継続した。途中からは代々木の喧噪に耐えられなくなり、練馬に戻った。それから電車通勤しているうちに体調がおかしくなってきて、自宅作業をする許可を得た。そうこうしているうちにコロナが来て、世の中のほうがこちら側になった。
コロナで自宅作業をしているうちに、そもそも家から出かける頻度が非常に低いことや、14年間暮らしてみて東京にながく住みたい場所が見つからなかったこと、家賃や不動産の価格が高いことなどが気になり始め、思い切って関西に引っ越すことにした。
会社には引っ越しを決めてからいきなり相談したが、案外すんなりだったので、いろいろとすごいなと感じた。
自分にとって東京はなんだったか
上京する前、東京は不思議に満ちた場所だった。それだけにセレンディピティに対する期待が大きかった。実際そこは、東京の路線の乗り換えのように、目的に対する選択肢が数限りなくある場所だった。
そして同時に、「その選択肢から最良を選ばなければならない」という呪縛のようなものを感じる。最良でなかったとき、「損をした」と思ってしまう。これがとてもしんどかった。「べつに何かを取られたわけではない」ということに気付けると、すこし楽になれた。東京は落ち着ける場所ではなかった。
上京する動機は冒頭に書いた通り仕事だった。居続ける理由も仕事だった。その理由が東京を強いることがなくなったので、離れることにした。つまるところ自分にとっての東京とは、仕事の場所なのかもしれない。
関西に住む動機はあまりない。たまたまと言っていい。自分たち二人にとって、区切りという意味もある。区切ったあとに何が起こるのか、今度は東京の外に不思議を期待しているところもある。
少なくとも、東京での14年間の有象無象の不思議は、自分たちを大きく変化させることに成功した。これからの数年間もきっと、変化の連続だろう。それでも一緒にいたいと思える相手が得られたことが、東京暮らしの意味だったということにする。