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読書メモ:アリストテレス『弁論術』4

こちらの続きです。

mizunokura.hatenablog.com

第2章始まり。

  • 弁論術はあらゆる対象を取り扱うことができる。
  • 説得の証拠立てには2種類ある。
    • 弁論術によらぬ手段で得られたもの。
    • 弁論術によって得られるもの。
  • 弁論術での説得には3種類ある。
    • 1つ目は人柄に依るもの(信用できる人の言うことは信じられるよね)
    • 2つ目は聞き手の心がある状態になることでなされるもの(感動によって動かされることであり、「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」で語られていること)
    • 3つ目は言論によるものだ(言論の内容を聞いて理解し納得すること)。
  • 以上の3種類あるので弁論術は、人柄や悪について考えられる者、感情についてつぶさに考えられる者、論理に達者な者が得意とする。
    • そのため、弁証術と倫理学とから派生するものだと言える。
      • その倫理学政治学と呼ばれるべきものだ。そのため、弁論術は政治学を装い、弁論家たちも政治家を装っている。

ところが、その倫理学政治学と呼ばれてしかるべきものである。(33ページ)

倫理学政治学に何の関係が?と思った。文末注によると、「倫理学政治学も行為の目的として最高善を求める」とのことだった。なるほど。最高善の追求が個人の範囲であれば倫理学、公共の範囲であれば政治学ということらしい。これらの共通点について考えたこともなかったので新鮮に感じた。そもそも、おそらくは実現された政治へのイメージに引っ張られているせいで、政治学が最高善を求めている印象がなかった。

弁論術が政治学を装い、弁論家たちが政治家を装っている理由として、無教養や虚勢、弱さが挙げられているのが面白い。個人の最高善追求がそんなにも自信を持って語れないことなんだろうか。でもたしかに、「〜すべきだ」と語るとき、それが個人やその周辺に閉じたものとして語る場合と、公共の問題として語る場合とでは、後者のほうが責任が曖昧になって安心できるのかもしれない。

なぜなら、弁論術は、初めにも言った通り(二二頁参照)、弁証術の一部分であり、同類だからである。(34ページ)

出たー!ここか。弁論術は弁証術と「相応ずる」関係のはずが、「弁証術の一部分であ」る(弁論術∈弁証術)と言っている部分。

  • 弁証術での証明方法は、帰納、推論(演繹)、見せかけの推論とがある。
  • 弁論術での証明方法は、例証、説得推論、見せかけの説得推論とがあり、それぞれ弁証術のものと対応している。

日本語だと推論と説得推論とが混ざっていてわかりにくいが、原文を予想するにおそらく帰納、推論、例証、説得推論はそれぞれ、説得推論の場合が enthymēma であるように、一語での表現なのだろう。そして弁証術と弁論術との用語の違いは、帰納と演繹とがいずれかの文脈で語られるかの違いしかないという意味だと思う。

文中で触れられている『トピカ』も読んでみたくなった。

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