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読書メモ:飲茶『史上最強の哲学入門』1

こちらを読みながらのメモです。 ※ 解釈が間違っていることもありえますので、ぜひ本を読んで判断してください。

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自己解釈込みの要約。

真理について

古代

プロタゴラス(紀元前485〜410)

  • 真理は多角的で人・時・場所によってそれぞれ違うもの。
    • どんな主張も見方を変えれば反論できる。
    • たったひとつの真理など存在しない。
      • そんなものを追求する意味はない。

ソクラテス(紀元前469〜399)

  • 無知の知
    • 知らないことは語れない。語るには、まず知る必要があるのでは?
      • 真理を追求する意味はここにある。

中世

  • 人間の理性では真理には到達できない。神への信仰が必要。

ルネサンス

デカルト(1596〜1650)

  • 哲学の体系化を目指すため、公理を求めた。
    • 森羅万象に対する懐疑
      • 「我思う故に我あり」
        • そんな我を作り出したのは神
          • 全能の神が作り出した我の認識は完璧のはず。
            • 我が認識する森羅万象はあり、それが真理であるはずだ。

近代

ヒューム(1711〜1776)

  • 「我」は知覚の集合にすぎない。
    • 我の認識は知覚の経験の集合にすぎない。
      • 知覚の集合である我々が、同一の経験の集合を持っているという保証はない。
        • そんなバラバラである可能性のあるもののことを真理と呼べるのだろうか。

カント(1724〜1804)

  • バラバラと言いつつ、共通する知識や経験はあるよね。
    • それは先天的な共通の形式によって認識しているからだ。
      • それならその共通の形式による認識においての真理(人間にとっての真理)と、その追求を打ち立てることはできる。

ヘーゲル(1770〜1831)

  • ある真理とそれに対立する真理とを争わせることで(弁証法)、より真理に近い真理を得ることができるはずだ。

現代

キルケゴール(1813〜1855)

  • 一生のうちに到達できない真理に興味ない。自分にとって最も納得できる真理こそが命を賭けるにふさわしい真理だろ。

サルトル(1905〜1980)

  • ヘーゲルの提唱した弁証法による真理の道を、我々自身の人生を使って推し進めよう。
    • 資本主義によって豊かになり、暇になった若者たちに大ウケ。
  • 自由の刑の中にあるからこそ、自らの手で歴史を選択せよ。

レヴィ・ストロース(1908〜2009)

  • 西洋中心の一方向にしか進まない真理への道という前提は、西洋文化による傲慢な思い込みではないか?

デューイ(1859〜1952)

  • 有用性のある命題だけに注力しましょう。
    • ある説に有用性があるのなら、その真偽は問わず、それは真理なのだ。

デリダ(1930〜2004)

  • コミュニケーションでは、言葉などを伝えることはできても、意図をそのまま伝えることはできない。
    • 受け手側の解釈がすべてなのではないか。
    • 真理についても同じことが言えるのではないか。
      • 人間の真理は受け手である我々の解釈がすべてなのではないか。
        • 他者による再解釈が許容されるべきだ。

レヴィナス(1906〜1995)

  • どんな真理にもそれを否定する他者が存在する。
    • ということは「我」のように「他者」もまた、絶対に存在するといえるのではないか。
      • 他者は我にとって不愉快で理解不可能な存在だが、真理探求のための問いかけには絶対に必要だ。

真理とは他者との問いかけに必要な幻であり、そのことこそが真理なのではないだろうか。

以下は感想。

繰り返してない?

「真理はひとつ!(神話)」
         「真理は人それぞれ(プロタゴラス)」
「真理はひとつ(ソクラテス〜デカルト)」
         「真理は人それぞれ(ヒューム)」
「(人間にとっての)真理はひとつ(カント)」
         「真理は人それぞれ(キルケゴール)」
「たったひとつの真理に向かって進もう(サルトル)」
         「進んでいく真理はそれぞれにある(レヴィ・ストロース)」
         「有用だったらそれが真理(デューイ)」
         「解釈ごとに真理がある(デリダ)」

また「真理はひとつ」になっていくか、すでになっているかだと思う。