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読書メモ:アリストテレス『弁論術』

こちらを読みながらのメモです。

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弁論術(Rhētorikē)と弁証術(Dialektikē)について

弁論術は弁証術と相応ずる関係にある。

弁証術

  • (1)一般の通念からなる推論を材料に行う。
  • (2)あらゆる問題を扱う。
  • (3)問答によって議論を進める。
  • (4)一般的・普遍的性格の議論。

弁論術

  • (1)真にして第一なる原理に基づいて行う。
  • (2)あらゆる問題を扱えるが、実際には政治的領域がほとんど。
  • (3)連続的な語り方を用いる。
  • (4)結論はあくまで個別のケースについてのもの。

このように両者は異なっているが、いずれも蓋然性(一般の通念や第一なる原理の確かさ)を基にしていることから、そこに疑問を発することで肯定的、否定的いずれの結論をも導くことができる点で類似している。

antistrophos について

上述の「相応ずる関係」は原語では antistrophos と表現され、もとは合唱舞踊隊の動きを意味する。つまり2つの概念が合わせ鏡のようになっているようなことなのだろうか。とはいえ、実際にはそこまで正確な対称性を備えているとはアリストテレスも考えておらず、その他の箇所では弁論術は弁証術の派生物だとか一部だとか表現しているそうだ。

プラトンの『ゴルギアス』内でも同様の antistrophos が登場する。岩波文庫版では68ページの464Bおよび72ページの465Eがそれで、たしかに一見非対称的な2つの概念が antistrophos と表現されているようだった。

MD 現代文・小論文での「弁証法(dialectic)」

(前略)古代ギリシアにおける「ディアレクティケー」とは、一たん相手の主張を認めておきつつ、その論理を展開すると矛盾が生じることを示し、それによって相手を説き伏せるという論争術の手法であった。(583ページ上段)

これはおそらくプロタゴラス相対主義で無双していたころの Dialektikē だろうと想像する。

その後「ディアレクティケー」という言葉は、「対話」において互いに見解を異にする者同士が言葉を交わし合うことによってより高い統一的な見解を生み出す、一種の学問的方法という意味で用いられるようになった。(583ページ中段)

アリストテレスにおいては、真なる前提から出発して真なる命題に至る論理学である「論証法」に対して、誤った前提から出発してもっともらしい結論に至る一段低い論理学として「弁証法」が区別された。つまり、弁証法が論理学の一部門として位置づけられるようになった。(583ページ中段)

ここでの「論証法」とは Rhētorikē (弁論術)のことだろうか。もしそうなら、一見して上記の「相応ずる」関係性とは異なる説明がされているように思える。また『弁論術』の中のその他の箇所では、弁論術が弁証術の一部(弁論術∈弁証術)として書かれているとのことだったので、MDはまるで反対(弁証術∈弁論術)のことを言っているように見える。これは『弁論術』を読み進めるうえで気になるポイント。

パイドロス』での Diakletikē

プラトンの『パイドロス』でも Diakletikē について触れられている(266B-D)。ただし、ここでは Diakletikē は弁論術の一部分(弁証術∈弁論術)という表現で書かれている。これはMDでの表記と重なる。もしかしたらMDはプラトンの主張とアリストテレスの主張とを取り違えているのかもしれない。

参考