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読書メモ:アリストテレス『弁論術』2

こちらの続きです。

mizunokura.hatenablog.com

「議会弁論は術策の余地がない」

アリストテレスは、議会での弁論と法廷での弁論とが扱う事柄が同一であると考えている。しかしながら、彼が述べるところでは当時の弁論家たちの書く弁論の技術書はもっぱら法廷弁論について語るのに終始している。議会弁論のほうが公共性があり高尚であるのにも関わらず。それはなぜか。

彼の考えでは、法廷弁論はそれを聞く裁判官たちにとって他人事だからだ。

「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」には、弁論を聞く者の同情を惹いたりウケを狙ったりして聴衆を取り込む方法が書かれている。しかし議会弁論の場合、それを聞く議員たちは議論の当事者であり、弁論の内容について事実以外の事柄(虚偽や誇張など)が入り込まないよう用心している。そのため、弁論によって取り込まれる余地がない。一方で、法廷弁論を聞く裁判官たちは議論の当事者ではない。そのため議会弁論での用心が働かず、弁論によって取り込まれてしまうのだ。

しかしながら、裁定を公平に、国益に沿った形で行うことができるだけの能力や思慮に富んだ人間は少ない。そのためそういった人間は立法者になり、その法は可能な限り個別の事案による振れ幅を減らしておくべきであり、その他大勢の凡才たちが裁判官となって、その少ない振れ幅を加減する役割を担うべきなのだそうだ。

ところで先述の通り、「当時の弁論家たちの書く弁論の技術書」にはほとんど法廷弁論の話しか出てこないそうだ。ということはつまり、上記の理想は叶えられていなかったということなんだろうなあ。

当事者でない問題についての議会弁論

もしかして当時の古代ギリシアの法廷では、議員にとって当事者でない問題は議場に上らなかった(上りにくかった?)のだろうか。

現代の議会では、議員が直接の当事者とならないような問題も議場に上る。そしてしばしば参考人が呼ばれるものの、やや的外れな決定がなされることがある。思えばこれは、他人事だからなのだろうか。

また現代の議会では、「弁論を聞く者の同情を惹いたりウケを狙ったりして聴衆を取り込む」ことが行われているように思う。これはテレビカメラが入っているときにだけ行われる印象があるので、聴衆としては視聴者を想定しているのだと思うが、視聴者たちは直接的に目の前の議論を左右できる立場にはない。そう考えると結局のところ、目の前の問題が多くの議員たちにとって他人事だからなのかもしれない。

ひるがえって日常生活について考えると、自分が相手の語る事柄や事実からよりむしろ、語り方や必死さで判断しようとしているとき、それはやはり自分にとって他人事だからかもしれない。

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