なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

鎌でガラスを掻く

2年ぶりに海で泳いだ。場所は南紀白浜白良浜(しららはま)。『白い砂浜に青い空』という情景描写がお世辞抜きにそのまま当てはまる海だった。朝から出かけて、体が熱くなったら泳ぎ、疲れたら休み、日が落ちる少し前に旅館へ戻った。そしてその結果、脚が猛烈に焼けたのだった。

あとから聞いた話では、白良浜のように砂が白く海の透明度が高い場所では、海面での屈折や砂からの反射によって、海に浮かんでいるときのほうが日に直接照らされているよりも、日焼けが進行するらしかった。しかしそれはあくまであとから聞いた話なのでもう遅く、その日の夜、温泉につかろうとしたところを、両脚への激痛と後悔とが襲ったのだった。

平日だったこともあり、温泉内には他に誰もいない。「あ〜〜〜〜〜〜いて〜〜〜〜〜〜」などと呻きつつ、我慢して肩まで浸かった。そのまましばらく湯の中にいると、両脚の痛みに慣れはじめ、お湯からの痛みに耐えるという感じではなくなってきた。

そうしてやっと、あらためて周囲の状況を確認することができた。

ガラスのむこうにカマキリがいた。

4センチ程度の、まだ小さく若いカマキリだった。木製の窓枠の上に立ち、両腕のカマを使って、ガラス窓をひっかいていた。そうしているうちに、たまにとっかかりが見つかり、そのカマキリはガラス窓を登りはじめた。と思うと、次の瞬間窓枠に落ちる。なかなか諦めることなく、それを繰り返した。

カマキリにとって、このガラス窓は何だろう。自然界には存在しない人工物で、きっとこれまでの進化の過程の中でそれが存在した期間があまりに短く、種として適応することが未だできていない構造物。そのために、登りたくとも上手く登攀することができない物。そこに何かがあることはわかっても、全体像を掴むことすらままならない何か。

ヒトにとって、そういうものはあるだろうか。ヒトの腕ではうまく登れず、理解することもままならない何か。仮にそれがあったとして、幾人かはその存在に気付くことはできたとしても、人類全体としてその感覚や知識を共有できるだろうか。ここでは具体的に明らかにはしないが、最近評論を読んだ物事が、そのガラス窓と重なって見えた気がした。

カマキリの上方にはガがいた。

有翼のガは、このガラス窓をどう理解しているのだろう。カマキリとは違い、ガラス窓の上のほうに留まることができる。同様に、下方に留まることもできる。しかして、全体像は把握できるだろうか。その点について同じ性質を持つ木や岩と、どう違うのだろう。もしかしたら彼らの世界観では、いずれも「留まるもの」と呼ばれているのかもしれない。

もっと脚力のある虫、たとえばカナブンはどうだろう。ガラス面は無理でも、木枠の横辺を伝って上に登ることはできる。ぐるっと一周して空間を認識できるとしたら、彼らにとってのガラス窓は、「四角い道」なのかもしれない。もしかしたら飛んでぶつかることで、「面」として把握できるかもしれない。

ガラスの反対側にはヒトがいる。

ちょっとやそっと温泉に浸かったところで脚の痛みは引くわけもなく、またいくらか呻きながら湯をあがり、その場を後にした。