なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

眠れないときに眠るための方法

眠れない夜ってたまにありますな。そんなときでも眠るための方法で、自分の今まで聞いたことのあるやつをご紹介します。

クラゲのポーズ

体を布団の上に投げ出します。そして目を閉じ、自分のことを足の長いだらーんとしているクラゲだとイメージして、力まず重力に任せるように手足を伸ばして広げていきます。 海の中、漂う自分をイメージしましょう。はい入眠。

おでこ冷却

仰向けで横になります。目を閉じて、右手→左手→右足→左足→おなか→胸の順に、じわじわと重たくなっていく様子をイメージします。続いておでこに意識を移動して、だんだんとひんやりしてくるつもりになってみます。 これを繰り返していれば、はい入眠。

宇宙遊泳

体を布団の上に投げ出します。目を閉じて、宇宙をイメージします。そこに太陽が現れました。太陽から順に、水星、金星、地球、火星、木星土星天王星海王星…と移動していき、ゆっくりと、どんどん太陽系から遠ざかっていきます。 やがて銀河をイメージしたころには、はい入眠。

変則しりとり

体を布団の上に投げ出します。目を閉じて、なんでもいいので言葉を思い浮かべます。例えば「りんご」なら、「り」から始まる別の言葉を連想します。「りすぺくと」なら、次は「と」で終わる言葉を連想します。「かすたねっと」なら、「か」から始まる言葉を…という具合に連想を繰り返します。 いつのまにか、はい入眠。

挙げてみたら4つしかありませんでした。ぜひ試してみてください。

Una maledizione e una contraddizione.

Ho stato proferito una maledizione. Non posso perdonare i genitori a cuore aperto, e non lo capiscono sul serio perché entrambi pensano che "Io sono la vittima singola." Da loro, ho imparato che l'uomo non posso comprendere l'un l'altro. Eppure, è illogico ma, so che cercare di capire è il tesoro della vita.

書かずにはいられない生き物

北原白秋の『フレップトリップ』や『五足の靴』、和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』を見るにつけ思うにつけ、世の中には書かずにはいられない生き物たちが存在することを改めて実感する。何かを経験すればそれを書き留め、何かを思えばそれもまた書き留め、そのうちのいくつかは世に出され衆目を浴び、またいくつかは蔵されているのだということがなんとなく想像できる。

北原白秋 フレップ・トリップ

五足の靴 (岩波文庫)

五足の靴 (岩波文庫)

イタリア古寺巡礼 (岩波文庫)

イタリア古寺巡礼 (岩波文庫)

城北古書展

神田神保町で、5/4〜5の日程で城北古書展が開催されていた。どうやら毎年恒例のようで、しかし自分の場合は今回が初の立ち寄りだった。何がきっかけで知ったのだったか、おそらくは Twitter だったと思う。

会場は、神保町から御茶ノ水に向かう方面に建っている東京古書会館というビルで、その地下1階だった。入り口には店主らしき人たちが並ぶレジがあり、その脇を通った奥に、仮設の棚が並んでいる。書籍は2010年台の新しいものから江戸時代のものまで幅広くあり、またそれ以外に、古いパンフレットや掛け軸、切手などなどがわらわらと置かれていた。そんな棚の間を中年〜老齢の男性・女性たちが腕組みしながら歩き回り、あるいは手にとって見、あるいは棚を舐めるように眺めるなどしていた。

古書の価格は概ねどれも安くなっていて、普段1000円で出ている本が500円、200円のものが100円などと、だいたい通常の半額になっていた。理由はわからないが、持ち帰るのが面倒なのでここで売ってしまいたいのかとも思われた。うぶ荷*1もあったそうだが、それとわかるような目印があるわけではなく、素人の自分には全く見分けがつかなかった。

そこでは、普段200円がついている新書を100円で2冊買い、大型本を1冊購入した。和漢書もかなりお手頃価格で出ていたので、記念に購入しようかとも思ったが、漢文が平易に読めないことと、興味のわく内容のものが見つけられなかったので、今回は手出ししないことにした。城北展で書籍を購入すると、普通のスーパーの袋に本を入れてくれる。これもまたなんとなく非日常的で気に入った。

神保町古書巡り

古書会館を出ると、スーパーの袋を提げたまま神保町の古書店街に戻った。自分の場合はいつもだいたい同じルートで巡っていく。神保町の表通りにある澤口書店の巌松堂ビル店に始まり、西へ交差点を目指して向かいながら店先や店内を眺め、信号を渡ったら古書センタービルを登り、降りたらひとつ南の通りからまた東に戻っていき、やがて三省堂書店へたどる。SFを探すときにはアットワンダーや羊頭書房を覗くこともあるが、この日の目的はそれではなかったので、店先の廉価本の棚を眺めるにとどめた。

これをだいたい3周ぐらいすると、なんとなく疲れてくるので、喫茶店を探すことになる。この日も神保町で有名なさぼうるへダメ元で向かってみたが、「GW中は休業」との張り紙に出迎えられ、ほかに店を探す気力も残っていなかったので、そのまま神保町での休憩を諦めて帰路についた。

そんなに本を読むほうではない

と言うと奥さんからは全力で否定されるのだが、世の中には自分以上にもっと読む人がいることがわかっているので、本当に自分は読むほうではないと思っている。書棚にはたくさん本が溢れているし、身の回りでは読むほうだとも思ってはいるのだけれど、自分は読むのも遅いし、何時間も集中して読める本が減ってきたしで、「読むほうです」とはおこがましくて名乗りづらいと感じる。

冒頭の「書かずにはいられない生き物」と対応して、「読まずにはいられない生き物」と自称することも考えられなくはないが、どうか。

*1:まだお客の目に触れていない商品

「食べ始まる」考

先日、こちらの新書を読んだんです。

日本語という外国語 (講談社現代新書)

日本語という外国語 (講談社現代新書)

その中に、以下のような記述がありました。

不思議なことに終わりの局面では「終わる」「終える」と両方の補助の動詞が使えるのに、始まりの局面では「食べ始める」は言えても、「食べ始まる」とは言えません。

たしかに著者の仰る通りで、「食べ始まる」はふつう使わない。この記事はそれがなんでやねんという話です。明確な答えが書いてあるわけではないのでお気をつけください。

「終わる」「終える」、「始まる」「始める」の違い

「終わる」は、ラ行五段活用の自動詞で、「終える」はア行下一段活用の他動詞。 「始まる」は、ラ行五段活用の自動詞で、「始める」はマ行下一段活用の他動詞。 どちらのペアも意味はほとんど同じどうしで、それぞれ物事の終了と開始を意味する動詞ですが、他動詞のほうが、それのかかる主体にとって意識的に終了・開始を行っているニュアンスが含まれています。例えば「そろそろ試合が始まる」の場合は他の誰かによって開始の合図があるように思われますが、一方で「そろそろ試合を始める」の場合は話者自身によって試合が始められるように思われます。

これだけなら、「食べ終わる」のように「食べ始まる」を使っても何の問題もないように思えてきます。念のため、辞書の上では意味も確認してみましょう。太字のものは、自動詞・他動詞いずれにもある意味です。

終わる

終(わ)る(おわる)の意味 - goo国語辞書

  • 続いていた物事が、そこでなくなる。しまいになる。済む。
  • 2 (「終わった」「終わっている」の形で)廃れる。人気が衰える。
  • 3 (「…におわる」「…でおわる」などの形で)期待された結果が得られないまま、それが最後の状態になる。
  • 4 動詞の連用形に付いて、動作・作用が完結する意を表す。…しおわる。…てしまう。
  • しまいにする。終える。
  • 6 生命が尽きる。死ぬ。

終える

終える(おえる)の意味 - goo国語辞書

  • 続けてきたことを済ませる。終わらせる。
  • 続いてきたことが終わる。

終わる・終えるは、終わるがより大きな意味を持ち、終えるを内包しているような関係(終わる⊂終える)になっています。

始まる

始まる(はじまる)の意味 - goo国語辞書

  • 物事が行っていない状態から行う状態になる。行われだす。
  • 新しく起こる。新たに発生する。
  • 3 起因する。起源をもつ。
  • いつものくせが出る。
  • 5 (「…ても始まらない」の形で)むだだ。手遅れだ。しようがない。

始める

始める(はじめる)の意味 - goo国語辞書

  • 物事を行っていない状態から行う状態にする。行いだす。
  • 新しく起こす。新たにつくる。
  • いつものくせを出す。
  • 4 (動詞の連用形などに付いて)その動作が行われだすことを表す。

始まる・始めるについてもほとんど同様で、始まるが始めるを内包する関係のようにも、部分共通のようにも思えます。これを見ても、「動詞+終わる」が言えて「動詞+始まる」が言えないのは、いささか不釣り合いな気がします。

言い換えて考えてみる

「食べ終える」は「食事を終える」に、「食べ終わる」は「食事が終わる」に言い換えることができます。同様に以下のように言い換えてみましょう。

  • 「食事を終える」(食べ終える)
  • 「食事が終わる」(食べ終わる)=「食事を終わる」
  • 「食事を始める」(食べ始める)
  • 「食事が始まる」(食べ始まる)=「食事を始まる」

こうして並べてみても、やはり「食べ始まる」はなんらおかしくないどころか、むしろ「始まる」を他動詞として「食事を始まる」と用い、その言い換えとして「食べ始まる」を使えないことのほうがおかしく感じられてきますよね。今こそ「食べ始まる」を使い始まるに相応しい時期なのかもしれません。

こういった変化には違和感があるかもしれませんが、かつて「大き(い)」の対義語として「小さな」しか無かった時代に、語尾の据わりを良くするために「大きな」「小さい」を発明し、これまで使ってきたように、こういった後からの発明はおかしなことではないはずです。

いざ使ってみる

ということで、今日から「動詞+始まる」の布教活動を始めようと思います。それを使うシチュエーションを考えてみましょう。

「食べ始まる」の場合

A「(電話がかかってくる)はい。Bさん?いつ帰ってくるの?」

B「もうすぐ帰るよ。みんなは晩ご飯もう食べた?」

A「ううん、ちょうど食べ始まるところだよ」

違和感があるかもしれませんが、最後の文を同じ自動詞の「うん、もう食べ終わるところだよ」にすれば違和感がありません。ということは、使い慣れてくれば「食べ始まる」も違和感が薄れてくるのではないでしょうか。とはいえ、これはもし「食べ始める」でもおかしくない、というのもその通りです。同様に「もう食べ終わるところ」が「もう食べ終えるところ」だったとしてもおかしくはないですが、何か独自の使い方を見つけたいところですね。

「歌い始まる」の場合

A「ライブ、まだ始まらないのかな?」

B「あ、見て。バンドの人が出てきたよ」

A「お、もうすぐ歌い始まるね」

この場合、「歌い始まる」ほどではありませんが、「もうすぐ歌い始めるね」にも少し違和感があります。「名詞+が+始まる」で「歌が始まるね」だとそこまで違和感はありませんが、「動詞+始まる」で同じ表現ができても不都合はなさそうです。

なぜ「動詞+始まる」を使わないのか

ここまで見てきた通り、「動詞+始まる」は文法的にもおかしなところはありませんし、使おうと思えば使うこともできそうな用法でした。しかし、使われていません。なぜでしょうか。答えが明確にあるわけではないですが、予想してみましょう。

他の表現で十分だから

上で見たように、「食べ始まる」は「食べ始める」(動詞+始まる)で十分ですし、「歌い始まる」は「歌が始まる」(名詞+が始まる)で十分伝わります。あえて区別する必要がなかったので、「動詞+始まる」が使われることもなかった可能性がありそうです。しかし、だとしたらどうして「動詞+終わる」と「動詞+終える」とが共存しているのか、という疑問が残ってしまいますね。

開始の感覚の問題

私たち日本人の無意識のなかには、『動作の開始はつねに意識的・自発的だから他動詞「始める」でしかありえないが、動作の終了は意識的・自発的である他動詞「終える」以外に、何らかの外的要因によって外発的に自動詞「終わる」こともありえる』という感覚があるのかもしれません。今でこそ「食べ終わる」「食べ終える」に大きな違いは無いものの、昔は内発的か外発的かによって使い分けており、一方で「始める」「始まる」にはその必要がなかったのではないでしょうか。

開始の責任の所在の問題

先程は動作の終了のほうに重きを置いていたのに対して、こちらは動作の開始に重きを置いた考え方です。動作を終了した人は誰であっても構わないから自動詞的な表現「動詞+終わる」が許されてきたが、動作の開始については誰が始めたのかを明確にするため、「動詞+始まる」が許されてこなかった、という可能性があるかもしれません。

結局答えは無いんですけど

ここまでに、いくつか可能性を挙げてきました。念のため以下におさらいします。

  • 他の表現で十分だったから
  • 動作の開始は主体的でしかありえないから
  • 動作の開始は誰が行ったのか明確でなければならないから

結局のところ、このどれが正解なのか、またこれらのうちのどれでもなく、他に答えがあるのか、はたまたこれらのうちのいくつかが複合しているのか、わかりません(きちんと調べていないので)。でも、こういった日常的に見逃している不思議に、気付かせてくれる本と出会えたのは幸せだったなあと思っています。未読の方はぜひ一度読んでみてください。

それにしても、プロの言語学(日本語学)の方はこういった問題をどうやって追いかけているのでしょうかね。気になったので、このGWはそのへんの勉強をしてみたいと思います。

紙の辞書、めちゃくちゃ良い

先日、紙の辞書を買ったんです。そう、イタリア語のですよ。これがめっちゃいい。21世紀なのに、紙、めっちゃいい。

この記事はそれがなんでやねんっつー話ですわ。

紙以前の時代

辞書を買うよりも前のころ、イタリア語を読んだり書いたりするのに使っていたのは、以下のものでした*1

Google翻訳

イタリア語←→日本語に設定して使用します。基本的には良いんですが、たまに翻訳に問題があります。体感ですが、正解率は6割ぐらい。イタリア語から英語、英語からイタリア語への翻訳精度は割と高いそうなので、やはり語族の壁は厚いということなのでしょう*3

それから、イタリア語に限らず英語でも、Google翻訳は読んだそのままの音をカタカナ語として翻訳結果にすることがあります。また、大文字で表記すると、大文字のアルファベットがそのまま翻訳結果になっていることもあります。こういった不思議な挙動は、最近とくに見かける頻度が高くなってきたような気がします。

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f:id:mizunokura:20180310231157p:plain Googleの謎、あるいは自然言語の不条理

無償で使えるものに文句を言い過ぎるのも良くないと思いますが、さらに言えば、検索語に対して意味がひとつしか表示されないことにも不満があります。日本語でもひとつの単語に複数の意味があることが少なくありませんし、イタリア語でもまたそうなのです。もっとも、Google 翻訳は辞書ではなくあくまで翻訳がその領分なので、辞書的な機能までも求めるのは酷かもしれません。

bab.la

イタリア語は屈折語なので、単語が活用しますし、中でもとくに動詞の変化が激しく、ひとつの単語について以下の活用形が存在します。

単純時制

  • 直説法現在
  • 接続法現在
  • 命令法現在
  • 条件法現在
  • 直説法未来
  • 直説法半過去
  • 接続法半過去
  • 直説法遠過去

複合時制

  • 直説法近過去
  • 接続法近過去
  • 条件法近過去
  • 直説法先立未来
  • 直説法先立過去
  • 接続法先立過去
  • 直説法大過去

不定

  • 不定
  • ジェルンディオ
  • 過去分詞

しかも、不定法以外の活用形については人称ごとに異なる変化をします。 例:「avere(持つ)」の変化

これらすべてをいきなり覚えるのは無理なので、よく使うものから覚えるようにしています。とはいえ書くときや読むときには、何がどの活用形かを知る必要が出てきます。そんなとき、 bab.la で検索窓に活用後の形で入力すれば、不定形などを一覧で見ることができ、便利なのです*4

Reverso Traduzione

このサイトは主に自分で文を作るときに使っています。単語の意味や活用形はわかっていても、その自然な使われ方は、例文を見て確認しなければわかりません。

日本語で例えるなら、焼肉を食べたことを伝えたい場合、「焼肉」「食べる」はわかっていても、その間にどんな助詞を入れるべきかわかりません。「焼肉が食べた」や「焼肉の食べた」や「焼肉と食べた」はおかしいですし、「焼肉は食べた」は正しくなる場合もありますが、この場合は「焼肉を食べた」が最も適しています。

こういう実際の使われ方を見るのに重宝しています。

WordReference.com

辞書サイトです。イタリア語の単語の意味が英語で出てきます。これはこれですごく使いやすいんですが、その単語に表記の似た別の単語が知りたい場合、関連して探す場合の使い方が難しくなります。

左側に「Vedere Anche:」の欄があり、近い表記の別単語が並んでいるのですが、それらの意味までひとつひとつ開かなければはわかりません。開いたとしても、英語なので、知らない単語だった場合はさらに英語→日本語の辞書サイトを参照したり、Google 翻訳を使ったりする必要があります*5

紙の辞書を買ったら長男が大学に合格しました

もちろん、紙の辞書のデメリットは全部知っています。

  • 引くのに時間がかかる
  • 重い
  • 有料

ほかにも「濡れたら終わる」とかって言いますけど、実際そういう状況で使うことはないので無視します。たしかに重い。そして引くのに時間がかかる。買うのに金もかかる。けれど、自分にとってはメリットがそれを上回ります。

  • 同音異義語が載っている。
  • 意味が日本語で書かれている。
  • 意味の記載優先度が、和語・漢語>カタカナ語になっている。
  • 似た表記の単語が意味と一緒に一覧になっている。
  • 慣用表現が記載されている。
  • 手に持って開いて読める。
  • 紙のにおいと手触りがある。

上4つは先述の、辞書購入前の問題点を解決してくれるものです。辞書購入後は、紙の辞書と、bab.la と、Reverso Traduzione を基本的に使い、Google 翻訳を作業全体の補助に使っています。さよなら WordReference.com 、ありがとう WordReference.com。

紙の辞書ってなんかあれなんですよね。言わば、自分の興味範囲の単語が会話に出てくると急に早口になるオタクに似てるんです*6。こちらが「待って、そこまで聞いてないんだけど」ってことを、延々と話し続けてくれる。単語を引くたびにそうだから「あーはいはいそれね。前も聞いた」って感じで耳から頭に残る。そのおかげで覚えられる。ありがとうオタク!!

紙で出来ていることも個人的にポイントが高く、辞書特有の紙のにおいがするので引いていて嬉しくなります。多少重たいけど、紙の重さなら不思議と気になりません。なぜって、脳内麻薬が出るからね。デメリットに書いた有料であることすらも、所有欲を満たしてくれて嬉しいので、ちょっと本気で頭がおかしいのかもしれません。

そういうことに気付かせてくれることもまた、紙の辞書のメリットなのかもしれませんね。

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*1:今も使っているものもあります

*2:など他言語もあるが、日本語は翻訳に難あり

*3:日本語が印欧語族っていう可能性もゼロではないけどね。

*4:日本語でこういうサイトあるのかな?

*5:英語勉強せいっつー話ではあるんですが

*6:自分もたまにやっちゃうし、ディスではないですよ

本を読む理由

コミュシルというサイトで以下の記事を読んだのをきっかけに、あらためて「本を読む理由」について考えました。

commusiru.jp

今の自分が「本を読む理由」

2017年の夏ごろ、仕事で使うこともあり、日本語の文法についての考え方や、校正・編集の方法について知る必要が出てきました。このとき自分は毎週のように神保町へ出向き、古本屋の新書コーナーなどで日本語関連の書籍を買い求め、古本が出回っていない書籍については新刊本屋やWebの通販を利用したり、人に借りたり、kindle形式の書籍などを購入したりして、ひたすら読むことで知識を得ていました。

つまり、今の自分にとっての「本を読む理由」は、「知りたいから」だといえそうです。

ただし、例えば海に潜ってみたときや、苦労して山に登って朝焼けを見たときなどの、実際に自分で体験して、自分の感覚を通して知るべきであろう実感については、「本を読んで得よう」という気にはなりません。他人によって書かれた本の中には、その人の知らないはずのことである自分の実体験について書かれているはずがありません。著者の実体験についてや、著者に限らない一般的な物事が書かれています。だから正しくは、「一般的な物事や、もしくは著者の感覚を通した経験について知りたいから」本を読むのだといえるのだと思います。

無意識での選択

では、「一般的な物事や、もしくは著者の感覚を通した経験について知りたい」と感じたとき、どうして本を手に取るのでしょうか。世の中には本以外にも知識の仕入先はあります。さらに本の中にも、漫画本や絵本、新書、辞書など多くの種類があります。それらの選択肢の中から、自分は無意識に本を、書籍を選択していました。なぜでしょうか。

それは、本でその知りたいという欲求が解消されるということを、あらかじめ知っていないとできないことです。本を選ぶからには、これまでの人生のいずれかの時点で、そのことを学習しているに違いありません。

「知りたい」のはじまりのころの自分

1987年、当時2〜3歳だったころの自分が何かについて「知りたい」と思ったとき、「本を読もう」とはおそらくはなりませんでした。当時は書籍を自分で読むことも難しく、また何か新しい物事を教えてくれるのはほとんどの場合両親だったので、自然に「両親に教えてもらおう」となったと思います。そこで彼らに「なんで?」と質問し、欲求を解消していました。

絵本も読んだり読みかせてもらったりはしていたのですが、自分にとっての絵本は絵を見る目的が第一のものであって、知識はそのついでに得られるものという位置づけだったのです(たぶん)。また絵本は、タイトルなどから得られる知識の内容を予測しにくいように思います。もし目的を持って絵本を読んだとしても、セレンディピティな知識との出会いはあれど、おそらく本来の目的には到達しにくいでしょう*1

両親への質問から、書籍へ

かつて質問を繰り返していたところから、どうして本に、とくに書籍に、知識を得るための方法が変わったのでしょうか。それは自分の場合、2種類の本との出会いが助けになっていたように思います。つまり、図鑑と昔話集です。

図鑑は、ほとんどの場合タイトルと内容が一致しています。「鳥」というタイトルの図鑑なら鳥が載っていますし、「動物」であっても同様に動物だけが載っています。いきなり自動車について触れられてはいません。また、図鑑は図が豊富に載っているため、見慣れていた絵本の形式と似ていることから精神的なハードルが低く、「本には一般的な知識が体系立てて掲載されている」という意識に、スムーズに移行できたような気がします。

昔話集は、まずそれがどういう形式の本かというと、100話あまりの昔話が、見開き1ページの中央に絵、その周囲にお話の文、というフォーマットで書かれているものでした。とても絵本に似ているのですが、文の量が比較的多く、また漢字もふりがな付きで豊富に載っていました。母親の五十音教室を卒業してすぐの自分には少し荷が重かったような気もしますが、語彙が増えるにつれて少しずつ読解できるお話も増え、そのことが文を読むことの楽しさに拍車を掛けていたように思います。

この2種類の本を足がかりにして、だんだんと読める本の種類が増えていったように思います。

本を読んでもらうには

しばしば子らの親たる人々が、「子どもに本を読ませたい」と言っているのを耳にします。なぜでしょうか。そして、どうしたらいいのでしょうか。

自分の持っている本を読む理由に照らし合わせると、「一般的な物事や、もしくは著者の感覚を通した経験について知ってもらいたい」から、要するに「賢くなってもらいたい」または「人の気持ちのわかる人になってもらいたい」からなのでしょう。もし理由が明確で、読ませたい書籍の形式までがはっきり決まっているのなら、それに向かって、成長に合わせた段階を踏んだ種類の本を与えていき、慣れていってもらうのが良いのではないかと思います*2

自分の場合は、絵本からいきなり児童書へ移行しようとして、一度失敗しました。それは、「絵を見る」経験から「文を読む」経験に移行するにあたって、文の量が多すぎたことや、そもそも内容に興味が無かったことなどが関係しているのではないかと思います*3

「活字を追いたい」という欲望

最後に。

とくに何かを知ることを目的とせず、ただ印刷された文字を読みたいと思うことがあります。他の人が言っているのを見ることがあるので、凡そ一般的な欲求なのかと思っていますが、ピンとこない人もおそらく多いでしょう。本に向き合っている静かな時間が好きだったり、文意を汲み取るときの脳内のはたらきが好きだったり、脳内で音読する声が好きだったり、人によって理由は様々なのではないでしょうか。

自分は文字を見ると落ち着くことが多いので、頭の中がいっぱいいっぱいになったときなどに活字を追いたくなります。とくに、文の流れに無理がなく、文法的に大きな誤りがなく、誤字脱字のない文章を読んだときには、まるで良い音楽を聞いたときのような心地よさを覚えます。

ということは自分の場合、「知りたいから」以外にも、「心地よさを求めて」本を読んでいるのかもしれません。

*1:そして自分の中でのこの位置づけには、今では漫画がいるような気がします。

*2:絵本→図鑑→昔話集のような短文…というように

*3:その本のタイトルは覚えてるんですが、未だに読んでいません

連続を失敗

ある夜、会社から帰ろうとして玄関で靴を探したとき、そこに自分の靴が無いことに気付いた。

決していじめられているわけではなくて

今働いている会社はいわゆるオフィスビルではなくかなり広めの一軒家なので、玄関では靴を脱ぎ、社内はスリッパで歩く必要がある。そのために帰宅の際には玄関で自分の靴を探して履くのだが、そこにあるはずの自分の靴がなかった。いや正確には、自分の靴だと思う靴はあるが、その確信が持てなかった。

手に取り、何度か見てみる。違和感は消えない。こんなタグは付いていたっけ。こんな色だったっけ。こんなにロゴは白かったっけ。ソールはこんな色だったっけ。

履いてみる。でもやっぱり変な感じがする。ニューバランスゴアテックスが使われているものだから、十中八九これだと思うし、社内にほかに28センチの靴を履く人がいたとしても、まったく同じ靴を買って履いている可能性は非常に低いはずだ。そう考えても、やはり他人の靴を履いているような感覚が消えなかった*1。他に自分の靴だと思えるものがなかったので、「これは自分の靴だ」と言い聞かせて履いて帰った。

あの夜から1週間ぐらい経過したが、誰からも「自分の靴がなくなった」という話は聞かない。やっぱり自分の靴だと思われるが、違和感はうっすらとまだ自分の中にある。

信号を待っているときの違和感

まだ違和感の話は続く。信号を待っているとき、そしてそれが青に変わったとき、「本当の自分は痴呆老人で、自分自身をまだ思考がしっかりしている30代なんだと思い違えているだけなんじゃないか」と考えることがある。つまり目の前の青信号は実際には赤であり、現実の自分は今まさに死のうとしているのだ。

実際にはそうでないことはなんとなくわかっている。しかし、そうでないと証明することももちろんできない。自分の認識している現実を現実として受け止めて生きていくことしかできないのだとしたら、なんと我々は認識の前に無力だろうか。そんな頼りの認識が揺さぶられたとき、どうしようもなく振り回されてしまうのは、しかしながらさもありなんという思いがする。もはや虚構の青信号を信じ、現実の轢死を受け入れるしかない。

それからというもの、赤信号が青に変わると、同じように自分を確かめてしまうようになった。その確認に意味はないけれど。

知っているものしか見られない

世のメジャーが紙の辞書から電子辞書に移りつつある昨今*2、「電子辞書では自分が引きたいと思った項目しか見られない。いっぽう紙の辞書なら、同じページに並んでいる項目も一緒に目に入る。そのぶん知識を広げることができるのに、機会損失になってしまう!」というような話をよく耳にする。

自分は「電子辞書も紙の辞書も良し悪しだから、使い方にあわせて選べばよい。すべてが紙または電子になる必要はない」と考える、平凡で、面白みのNASA*3を持ちあわせた人間だが、ここではその是非について話したいわけではない*4

かつて人類が Yahoo! 上で検索を行っていたころ、Webサイトはちょうど図書館の本のようにジャンルごとに分類され、並べられていた。利用者は見たいジャンルのページを開き、そこに並んだ Webサイトから見たいものを選んでアクセスしていた。ときには隣に(上や下に)並んでいるWebサイトが気になり、そこを見ることもした。目的のもの以外のWebサイトは、自分の知識の外にあるものだった。

現在はご存知 Google にWeb検索が取って代わられ、自分の知っている単語の組み合わせを用いて情報を検索するようになった。知識の外にあるものは、洪水のように誰かの興味が流れていく TwitterFacebook などの SNS、または Wikipedia などの情報が羅列されているWebサイトで摂取するように、自分の場合はなっている。

かつて誰かが「これからの時代はなんでも検索できるから何も覚えなくていい」と言説しているのを聞いたが、実際にはそうはいかず、「少なくとも検索するための単語は覚えなくてはならない」という状態になっているように思し、その検索語の種類や使い方を適切に身に着けていることが、検索したいものにたどり着くまでの速度に影響しているような気がする。また、言葉についての知識は、検索結果から情報を読み取るためにも重要だ。人間が言語を用いる限り、言語能力は重要であり続けるだろう。

いったい何の話だ

時間が連続しているものであり、左(または後方)からやってきて現在を追い越し、右(または前方)へ流れていくというイメージや感覚は、信じるに足るものなんだろうか*5

ふいに目がさめて、状況を確認し、たとえばそこが祖父母の家で、いとこたちがまだ中学生で、自分は肉体的に7歳程度、階下から母親の呼び声がし、居間で「今日のお昼は外で食べよう」という会話がされていたなら、さっきまでの自分の現実はじつは夢であって、こっちが現実なんだと、少なくない違和感を押し込めてしまう可能性が無いと言いきれない。

靴を失くすまでの自分は、可能性が無いと言い切ったかもしれない。信号が青に変わるまでは。

*1:おもしろいことに、人の靴だと思うとなんか汚い感じすらしていた

*2:もう移行は完了したのかもしれないけど

*3:アメリカ航空宇宙局

*4:電子辞書でも単語が画面に並んで出てくるものもあるし

*5:ちなみにその『時間』は青い