なぜですか

書きたいと思ったことを書きます

読書メモ:アリストテレス『弁論術』

こちらを読みながらのメモです。

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弁論術(Rhētorikē)と弁証術(Dialektikē)について

弁論術は弁証術と相応ずる関係にある。

弁証術

  • (1)一般の通念からなる推論を材料に行う。
  • (2)あらゆる問題を扱う。
  • (3)問答によって議論を進める。
  • (4)一般的・普遍的性格の議論。

弁論術

  • (1)真にして第一なる原理に基づいて行う。
  • (2)あらゆる問題を扱えるが、実際には政治的領域がほとんど。
  • (3)連続的な語り方を用いる。
  • (4)結論はあくまで個別のケースについてのもの。

このように両者は異なっているが、いずれも蓋然性(一般の通念や第一なる原理の確かさ)を基にしていることから、そこに疑問を発することで肯定的、否定的いずれの結論をも導くことができる点で類似している。

antistrophos について

上述の「相応ずる関係」は原語では antistrophos と表現され、もとは合唱舞踊隊の動きを意味する。つまり2つの概念が合わせ鏡のようになっているようなことなのだろうか。とはいえ、実際にはそこまで正確な対称性を備えているとはアリストテレスも考えておらず、その他の箇所では弁論術は弁証術の派生物だとか一部だとか表現しているそうだ。

プラトンの『ゴルギアス』内でも同様の antistrophos が登場する。岩波文庫版では68ページの464Bおよび72ページの465Eがそれで、たしかに一見非対称的な2つの概念が antistrophos と表現されているようだった。

MD 現代文・小論文での「弁証法(dialectic)」

(前略)古代ギリシアにおける「ディアレクティケー」とは、一たん相手の主張を認めておきつつ、その論理を展開すると矛盾が生じることを示し、それによって相手を説き伏せるという論争術の手法であった。(583ページ上段)

これはおそらくプロタゴラス相対主義で無双していたころの Dialektikē だろうと想像する。

その後「ディアレクティケー」という言葉は、「対話」において互いに見解を異にする者同士が言葉を交わし合うことによってより高い統一的な見解を生み出す、一種の学問的方法という意味で用いられるようになった。(583ページ中段)

アリストテレスにおいては、真なる前提から出発して真なる命題に至る論理学である「論証法」に対して、誤った前提から出発してもっともらしい結論に至る一段低い論理学として「弁証法」が区別された。つまり、弁証法が論理学の一部門として位置づけられるようになった。(583ページ中段)

ここでの「論証法」とは Rhētorikē (弁論術)のことだろうか。もしそうなら、一見して上記の「相応ずる」関係性とは異なる説明がされているように思える。また『弁論術』の中のその他の箇所では、弁論術が弁証術の一部(弁論術∈弁証術)として書かれているとのことだったので、MDはまるで反対(弁証術∈弁論術)のことを言っているように見える。これは『弁論術』を読み進めるうえで気になるポイント。

パイドロス』での Diakletikē

プラトンの『パイドロス』でも Diakletikē について触れられている(266B-D)。ただし、ここでは Diakletikē は弁論術の一部分(弁証術∈弁論術)という表現で書かれている。これはMDでの表記と重なる。もしかしたらMDはプラトンの主張とアリストテレスの主張とを取り違えているのかもしれない。

参考

目標と読む本

今年の目標のひとつは積ん読の消化です。読む本のなかでも少なくとも読みたいとくに重ためのものをここで宣言することで、自分を追い詰めようと思います。

アリストテレス『弁論術』

青山一丁目のスピリチュアル系書店ブッククラブ回で購入したまま本棚に刺さっている。どうして岩波の古代ギリシャ本がスピリチュアル系書店に置かれていたのかは謎。文庫版で巻末注を含めて500ページ。がんばる。

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Louis Rosenfield, Peter Morville, Jorge Arango『情報アーキテクチャ

買ってすぐに読んで一度挫折した。内容が悪いわけでも訳が悪いわけでもなく、自分が悪いだけ。情報の整理がそのまま文章構成や本業のスキーマ設計に活かせるだろうなという期待があるので今年こそ読む。大型本で500ページ。がんばる。

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福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識』

ゆる言語学ラジオで紹介されていて興味が出たので購入。開拓社の書籍はAmazonKindle版がセールになっていたので他にも色々買ってしまったものの、これはまず読みたい。四六版で200ページ。いける。

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谷美奈『「書く」ことによる学生の自己形成』

書くことで自己形成したいので買った。というのは嘘で、書くことが自己形成になるだろうな、と思ったのでその裏付けのために購入。大型本で160ページ。いけそう。

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田中久美子『言語とフラクタル

『記号と再帰』の著者であることと、統計的言語普遍に興味があったので購入。大型本で300ページ。がんばる。

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途中経過や読んだ結果はここで記事にするかもしれません。以上。

「あれみたいなやつ作ってよ」について

流行っていたりデファクトとなっていたりする他社のプロダクトを見たえらい人が、「あれみたいなやつ作ってよ」と言ってくるのはよくあることです。ここではそれがどうしてなのか、どういうことで困るのかについて書いてみます。

「あれみたいなやつ作ってよ」

は?

あなたの気持ちはよくわかります。そこにすでに誰でも使える形で存在しているのだから、みんなそっちを使うだろうし、新しく作る意味が見出だせないのでしょう。往々にして既存のもののほうが作り込みが進んでいて完成度が高く、今からそこに追従するのでは遅すぎることも多いです。気軽に「すぐできるでしょ」という感じで言ってくるのも、作り手の苦労や努力を踏みにじられているようで気に入りません。

まず事業として問題があり、あなたに会社への忠誠心が残っているのなら忠告してみるのも良いでしょうが、あまりおすすめしません。残り少ない忠誠心までもが消えてしまう可能性が高いからです。もし事業としての可能性が感じられる非常にまれなケースに直面したなら、このような不運を巡り合わせた神を罵りましょう。

なぜ「あれみたいなやつ作ってよ」と言っているのか

この発言の出てくる理由は単純で、しかもあなたもわかっていることです。「あれ」がすでにあるからです。ゼロから作るものをイメージして、長時間話し合いを経てまっとうに作る場合よりも、すでにあるものを見ながらそのコピーを作るほうが、イメージや話し合いのぶんのリソースが節約できると考えているのです。実際、そういうメリットはあります。まったく何もない状態から作っていくよりも、初期投資は少なく済むことでしょう。

またすでにあるものが世に受け入れられていることも、この発言のきっかけになっています。もうみんな使ってる、ということはみんな同じようなものでも受け入れてくれるに違いないと考えているのです。先行事例があるからもう一度(二度、三度…)同じ手が通用するよね、という楽観的な思考です。実際にはそう簡単にはいかないでしょうが。

「あれみたいなやつ作ってよ」の何が困るのか

ここからは、いざあれみたいなやつを作ったときの困りごとを書いていきます。

使ってもらえない

え?

いやいやいや、冷静に考えてみてください(あなたはわかっているかもしれませんが)。すでに使っているものをわざわざ乗り換えてまで新しいものを使う人と、乗り換えない人、どちらが多いでしょうか。その種類のサービスやアプリなど(たとえばSNSTwitterクライアントなど)そのものが大好きで、新しいものが出てきたらすぐに試したいといういわゆるアーリーアダプターは、全体のおよそ13.5%だと言われています。そのなかのいったいどれぐらいの人々が残ってくれるでしょうか。「いや、うちにはずっと残ってくれるはずだ」ですって? ただでさえ目移りしやすい人たちなのに?

問題を解決しなければならない

人に使ってもらう(こっちに移ってきてもらう)ためには、既存のプロダクトにはない魅力を打ち出す必要があります。そしてプロダクトの魅力とは、それを使うことによって得られる問題解決のことです。問題には種類があります。サービスそのものの問題(イケてないUI、高すぎる料金、遅すぎるデータ読み込み…)、顧客の抱える問題(時間がない、気力がない、不慣れで使えない…)の2種類です。これらを解決できるような魅力を打ち出さなければなりません。どうやって? そこぐらい自分で考えましょう(既存プロダクトのユーザーにヒアリングしても良いですね)。

見過ごされていた問題が戻ってくる

問題を解決できるような魅力を打ち出すと、それで移ってきた顧客は考えます。「きっとこっちのプロダクトなら、前のプロダクトにあったべつの問題のあれやこれやも解決してくれるに違いない」と。こうして新たな問題を解決しなければならなくなります。しなくても良いっちゃ良いのですが、期待を裏切られた顧客はどう思うでしょうか。

解決できない問題に直面する

いざ、前のプロダクトにあった問題を解決しようとしたとき、それができない(または非常に手間である)ことがわかります。なぜでしょうか。考えてみれば当たり前で、前のプロダクトを作った人たちも同じ問題に直面したからです。そして解決できずに放置していたからこそ、その問題が今も残されているのです。「あれみたいなやつ」を愚直にもう一度作ってしまった結果、あなたは「あれみたいなやつ」に残されていた問題も引き継いでしまったのでした。

ではどうすればいいのか

上記のような状態にならないためには、解決策はひとつしかありません。初期投資をしっかり行い、既存プロダクトの問題点をしっかりと洗い直すことです。また、プロダクトの取り扱うドメイン(DDDのDのほう)についての知識を深めましょう。そうすることで見えなかった問題が見えるようになり、避けるための工夫もできるでしょう。

ほかにできることは、初期投資を行わずに、いざ解決できない問題に直面したらそこでしっかりとリソースを割いて対応することだけです。具体的には、そのプロダクトが使われるシーンやユーザーの想定をし、ドメイン知識を深め、理想的な設計・実装に作り変えてやることです。そうでなければ、既存プロダクトの問題解決はおろか、新たな問題を作ってしまうことに繋がりかねません。そうしているあいだにも、既存の「あれみたいなやつ」にも魅力は追加されていくことでしょう。それに追いつくためにも、ここでしっかりと考えて知識を得ておく必要があることでしょう。

よく見てみると、初期投資で節約できたと思っていた部分がそっくりそのままここで支払われることになっていますね。結局のところ、「あれみたいなやつ」を作ったところで節約できるのは初期投資だけだということなのかもしれません。以上。

作文に効く本

ふだん日本語で文を書く際や、日本語への翻訳をする際に有用な本などを紹介します。

筆者は副業で翻訳(おもに伊英→日)をしています。日本語への翻訳を主に行っているので、日常的に日本語文を書く機会に恵まれています。また、本業の範囲内で企業内での日本語母語話者向けの作文勉強会を主催しました(その内容はそのうち別で記事にします)。ここでは自分が作文について学ぶために読んだもののうちで、とくに良かったものを紹介していきます。

本多勝一『日本語の作文作法』

こういう系統の記事では必ず名前の挙がる本。係り受けや修飾語の順序、句読点の打ち方や助詞の使い分け、典型的な悪文の紹介、レトリック、最終章では取材についてまで幅広く触れられている名著。1982年に初版が出て、2015年に新版が出された。『実戦・日本語の作文技術』という続編もあり、こちらも新版が出ている。

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岩淵悦太郎『悪文』

1960年代に書かれた、悪い文の例とそれがなぜ悪いのかについて説明された本。文例はやや古いものが多いが、説明は現代にも通ずるものがある。巻末の『悪文をさけるための五十か条』と題された一覧もとても良い。

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結城浩『数学文章作法』

理系の論文を書く際の注意点などがまとまった本。しかしそれだけのための狭い範囲のものではなく、語句や文や段落、論理的にまとまった構成にするための階層構造などについて説明されている。『推敲編』では、読者がなぜ迷うのかについてや、文や構成をどう修正すべきなのかについて書かれている。書き方について書かれた本は多いが、「推敲」について書かれたものは少ないので、それだけでも貴重な内容。

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野田尚史・野田春美『日本語を分析するレッスン』

日本語について自分で手や頭を動かして考えるための問題集。筆者はこれを勉強会でテキストとして使用した。話し言葉と書き言葉、マンガの言葉、落語、お笑いはなぜ笑えるのか、なぜ会話が失敗するのか・・・などについて、分析して考えることができる。

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野村進『調べる技術・書く技術』

ある物事について書くときに、そのための取材の心構えや手法、取材後の書き方や考え方について述べた本。筆者が仕事で文章作成していた際に拠り所を探して読んだもの。自分の作品に向き合うためのもの。

原稿のよりどころは、あくまでも自分の取材ノートである。録音資料も、取材ノートに書き写すか、パソコンで活字にし別刷りの形で綴じておく。あなた独自の作品は、ここからしか生まれない。(122ページより)

当時この文に心を掴まれたようで、ページの端が折られている。

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黒木 登志夫『知的文章術入門』

論文のための明晰な文章を書くための基礎や、わかりにくい文の例や理由、文の構成(このあたりの内容は数学文章作法に似ている)、情報収集の方法やツールの紹介など。末尾の3章は英語の使い方に当てられている。

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時事通信社『用字用語ブック』

新聞を書く記者のためのハンドブック。主に新聞常用漢字での表記を参考にしたいときに使う。それ以外にも、間違えやすい言葉や差別語・不快語、肩書や敬称などの書き方、漢字や英字の略語や二十四節気、時差表や度量衡の換算表が掲載されている。後半の内容は少々ビジネス手帳っぽい。

www.amazon.co.jp

三省堂『てにをは辞典』

日本語のコロケーション辞典。ある言葉の使い方に迷ったとき、それが一般にどのように使われるかを知りたくて使う。たとえば「食糧」なら、それが「食糧が」となる場合にあとにどのような言葉が続くか、「食糧を」「食糧に」「食糧難を」「食糧難に」についてはどうか、などが記載されている。

姉妹辞典に『てにをは連想表現辞典』というものもあり、こちらはある言葉から連想する表現について調べることができる。たとえば「調べる・確かめる」なら、「味見」を見出し語に「料理を味見する、味つけを見る、毒味をする」や、ほかにも「聞き出す」「聞き質す」「訊く」「研究」「検査」「検証」などなどが見出し語に立てられている。個人的には使用頻度は低いが、どうしても言い回しに悩んで悩み抜いて、行き詰まりを打破したいときに使うことがある。

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物書堂アプリ

こちらは紙ではなくアプリケーションで、いわゆる電子辞書アプリ。コンテンツを購入する必要があるものの様々な高品質の辞書が使えて、さらにそれらを横串で検索することができて非常に便利。また、MacOS版ではペーストボードに追加された文を自動的に検索してくれる機能も追加されていて、文をただコピーするだけで即座に意味を調べることができる。機能や辞書の追加も継続して精力的に行われていて、今後古くなる心配が少ないのも魅力的。

www.monokakido.jp

Mouse Dictionary

こちらはChrome拡張機能。マウスオーバーするだけで英単語を検索することができるようになる。辞書にはEIJIRO(記事執筆時点で495円)などを使用する。詳細な使い方や動画は以下を参照。熟語の検索もできるので、検索漏れによるミスが減りとても有用。

github.com

このほかにも読んでいない作文関係の本などはあるので、読んだり思い出したりした際には追加していきます。以上。

本との出会い方

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我が家には本がたくさんあります。たくさんと言っても数百冊程度なので、その道の人の蔵書数には遠く及びませんが、平均以上には所有していると思います。本が好きで、よく買い集めてしまうからです。そのためもあり、人に本の話をすることが多くあります。

あるときある人と話しているときにこういうことがありました。

わたし「こういう本があって、こういうことが書かれてて、(いまの話題)に似てるな〜と思いました。」

ある人「こういう本にはどこで出会うんですか? 僕は生きてても絶対に出会うことないだろうなと思って聞くんですけど。」

わたし「そうですね〜たとえばこの本とは書店でたまたま…(後略)」

わたし(そういえば、本とはどんな出会い方があるんだろう?

といったことがあり、それをきっかけに本との出会いについて考えてまとめてみました。

本と出会うきっかけ

図書館で出会う

図書館にはたくさんの本が並んでいます。それもただ並んでいるわけではなく、日本十進分類法という分類によって分けられて並んでいます。もし十進分類法の中のテーマに沿った本を探しているのなら、図書館を当たると良いでしょう。そうでないとしても本がたくさん並んでいるので、様々な棚を見て回るだけでも新鮮です。

参考:日本十進分類法 - Wikipedia

もし気に入った本が見つかったとしたら、まだ版が出ているものなら、その本を書店などで新たに買うこともできます。

書店で出会う

当たり前ですが、書店にも本が並んでいます。こちらは図書館とは違い、ほとんどの場合は、文庫やコミックなら出版社やレーベル、単行本や大型本なら内容によって分類され、陳列されています(もちろんそうでない書店もあります)。

書店には新刊書店と古書店とがあり、新刊書店では新刊、既刊が主に手に入ります。古書店では既刊、重版未定、絶版本が主に手に入ります。本と出会うだけでなく、多くはそのまま購入することもできるのが書店の特徴です。

大型の新刊書店はスペースが広く、そのぶん数多くのジャンル・対象年齢・価格帯の書籍が取り扱われています。小型の新刊書店は狭いぶん、その地域一帯の消費者を対象とした書籍に絞って陳列されていることが多いです。今まで触れたことのないようなジャンル・対象年齢・価格帯の書籍との出会いは、自ずと大型書店のほうに多く隠されていることでしょう。

古書店はそもそも入荷する書籍のジャンル・対象年齢を限定しているところがほとんどです。沖縄に関する本だけ、少年少女向けコミックだけ、大学教科書だけ、東京の歴史関係だけ、SFだけ、などを専門に扱うお店などがあります。予め希望にそうようなお店を探しておいてもいいし、とにかく飛び込んでそのジャンルの世界に入ってみるのも良いでしょう。

Webの書店もあります。Amazonやhonto、e-honなどがあり、配達までの速度ではAmazonが、在庫数ではhontoが(個人の感想です)、雑誌関係ではe-honが強い印象があります。また、e-honは全国の小規模書店などでお取り寄せができ、売り上げをそこに落とすことができます。応援したい場合は積極的に利用しましょう。

また honto は、著者やキーワードを登録しておくと、新刊をメールやアプリでお知らせしてくれる機能があります。加盟店やWeb上で購入した書籍は自動的に「My本棚」へ登録されるので、そこからの通知設定登録も出来て重宝しています。

書店の一例

新刊書店の大型店舗

有名な古書店

書店で出会った本の一例

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イベントで出会う

本に関するイベントも多く開かれています。主に古書イベントですが、東京では神田古本まつり@kanda_kosho)、新宿駅の地下催事場、西部古書会館の古書展など、全国各所で開催されているのでお住まいの地域での古書展を探してみてはいかがでしょうか。

また、百貨店の特設展示場などの古書店外の会場での催しの場合には、同じ本でも店舗に並んでいたときよりも価格が下がっていることがあります(おそらくですが、売る側としてはせっかく持ってきたのに持って帰りたくないからです)。もちろんイベントまで出展されていなければ意味がないことではありますが。

イベントで出会った本の一例

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人づてに出会う

本を人から教えてもらうこともあります。趣味や好みが合う人などに、「最近面白かった本ある?」など質問してみると良いのではないでしょうか。また、自分の好きなものを日頃から周りに伝えていると、それをきっかけに教えてもらえることもあります。

また、「人の家の本棚を勝手に見る」というあまり行儀の良くない方法もあります。「その人が面白そうだと感じて買って、気に入ったので手元に残している本」がきっと半数以上は置かれているはずなので、参考にしやすいのではないでしょうか。

本棚が置かれているのは、人の部屋だけに限りません。ホテルのロビーや、温泉の休憩スペースにも本棚が設けられていることが多くあります。とくに後者のラインナップは不思議なものが多く、思わずその本棚が出来上がるまでの経緯について思いを巡らせてしまいます。

さらにYouTubeの動画の中には、書籍を紹介しているものもあります。あるいはあなたが気に入って見ているチャンネルの人が、動画の中で紹介しているかもしれません。それもまたひとつの本との出会い方でしょう。

人に教わった本の一例

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YouTube動画の一例

Twitter上で出会う

YouTube同様にTwitterアカウントとはいえ中に人はいるので、これもまた結局は人づてかもしれませんが、Twitter上で本と出会うこともあります。また、私人としてのアカウント以外にも、出版社のTwitterアカウントが存在します。

出版社のアカウントでは自社の近刊本の宣伝が行われる以外に、新刊本や既刊本の感想TweetReTweetが行われています。宣伝目的ですのでもちろん好意的な内容しかRTされることはほとんどありませんが、そういったレビューを通して本と出会うこともあります。

さらに、電子書籍のセール情報や、書店でのキャンペーンなどの情報を仕入れることができるのも、出版社のTwitterアカウントをフォローしていてうれしい点です。

もちろん書店の中にもTwitterアカウントを開設しているところが多くあります。新刊書店もあれば、古書店のものもあるので、フォローしてみるとそこからも出会いが広がっていくことでしょう。

Twitterアカウントの一例

本棚を見るのが好きな人は、Twitterハッシュタグ#本棚晒す」を見てみるのも良いでしょう。漫画本の棚が多いですが、参考になる写真があるかもしれません。

Twitterで知った本の一例

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本の中で出会う

本を本から教えてもらうこともあります。

巻末に参考文献が載っている書籍もありますし、文中に引用や紹介があることもあります。巻末やカバーの袖に同じ出版社や著者の書名が出ていることもありますね。

たとえば、ちくまプリマー新書や岩波ジュニア新書などの中高生〜社会人向けの書籍では、巻末に読書案内が掲載されていて、その本の内容を入門に、さらに深く知っていきたい内容によって分類されていることがあります(著者によりますが)。

読書案内や書誌に並んでいる本は既刊〜絶版本までと幅広いですが、その本のテーマに沿っていることがほとんどなので、芋づる式に知識を広げていきたい場合にはこの方法が良いかもしれません。

また、本(に限らず作品全般)には、必ずアイデアの源があります。自分の好きな作品のアイデアの源のうちのひとつが本ならば、そこから出会うこともできます。自分の好きな作品に含まれる要素を本文中に探しながら、きっと楽しく読みすすめることができるはずです。

書誌情報や紹介の豊富な本の一例

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著者を通じて出会う

同じ著者の書籍をたどるという方法もあります。

文学小説作品やコミック本で、同じ著者の他作品を当たることをする人は多くいると思います。実用書や人文書など、ほかのジャンルの書籍でも同じことはできます。また、共著を出している著者の場合、共著者の他の書籍をたどっていくことで、同じジャンルの中で幅を広げていくことができるかもしれません。対談だったとしても、若干共通点がこじつけなこともありますが、参考にできるでしょう。

自分が普段触れている書籍以外のもの(音楽やスポーツなど)で、気に入っている人物の著作を探すのも手です。もし著作がなければ、前述したように、その人が作品作りや試合前の時間などを共にしている書籍を探すのも良いでしょう。

著者を通じて出会った本の一例

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フリマサイトで出会う

メルカリなどの個人出品が可能なフリマサイトでは、多くの人がタイトル以外に書籍の内容を説明文のなかに記載して販売しています。検索時には説明文の中身も検索範囲に含まれるため、自分の興味のある言葉で検索すると、ただ書名で検索した場合よりも、興味を惹かれる本に出会える可能性が高くなります。

また、セット販売という形で、複数の書籍がまとめて販売されていることがあります。同著者でまとめられている場合もあれば、テーマが共通な場合もあれば、まったく関係のない書籍がまとめられていることもあります。必ずしも購入しなくとも、見るだけでも楽しいと思います。

フリマサイトで知った本の一例

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出会いをどうつなぎとめておくか

本と出会えたとしても、書店やECサイトを経由してすぐに購入できない、すぐに図書館に行けない、購入を検討したいなどで、すぐに入手しない場合、そのまま忘れてしまうかもしれません。

アプリ『honto with』

Web書店hontoには、ほしい本を集めておくための「お気に入り」という機能があります。この機能はWebサイト上でも使えるのですが、honto withというアプリでも使用することができます。気になった本はここにすぐに登録しておけば、そのまま honto 上で購入することもできるし、実店舗に行った際にも思い出して探すことができます(honto加盟店なら、アプリ上で在庫検索もできます)。

Amazonのカート

Amazonのカートに入れておくのもひとつの手でしょう。ほかの買い物のときに邪魔になるのであれば、『あとで買う』に移しておけば問題ありません。リストを作ってそこに追加しておいても良いでしょう。

終わりに

本との出会い方をまとめてみました。

こうしてまとめてみると、本が本を紹介してくれることもあれば、Twitterから著者を知りさらにその著作を知るパターン、自分の“推し”が紹介していた人が著者でその著作を知るパターンなど、本を知るきっかけは円を描くように循環しているなと感じました。なかでもTwitterは、本/書店/イベント/著者/人/フリマサイトについての情報をまんべんなく収集できる点で優れているように思います。また、好きな人や作品からの本との出会いは、読書を楽しむための味付けがされているような気がします。これらいくつもの方法を組み合わせて実践してみて、「○回見たということは、きっと楽しんで読めるはず」といったルールを自分の中に作ってみても面白いかもしれません。

実際に書店や図書館に行くまでもなく、世間は本で溢れています。「読みたい本が無いな」と感じているのだとしたら、それは単に探しきれていないだけという可能性が高いです。まずは自分の興味のある範囲などから、本の気配を探りにいってみましょう。きっと芋づる式に、たくさんの本たちが姿を現すはずです。

以上。

東京2007

明日東京から関西へ引っ越すので、書いておくかとなった。

東京には、2007年2月から暮らしていた。かれこれ14年近く住んでいたことになる。今年で11回目の26歳になるので、上京当時は22歳だった。

22歳といえば、20歳の頃、その1年前から両親が終わっていたことを父親だった人間から手紙で一方的に打ち明けられ、その衝撃とそれを言い訳にした怠惰が2年間続いた結果、ついに大学を中退した年齢だ。

その後、就職先が見つけられないでいたところに、親戚のツテで東京渋谷の医療系ベンチャー企業*1を紹介してもらい、夜行バスで面接に行ったところ、交通費として1万円くれたこともあって、そのまま入社した。

その会社には、2011年10月までいた

渋谷で医療系ベンチャー企業と言えば聞こえは良いが、その収益のほとんどを出会い系サイトのシステム受託開発に依っており、実態は出会い系ベンチャーであった。とはいえ出会い系以外の案件も少なからずあり、Web系サーバサイドのあれこれ(LANケーブル編みなど)は一通り経験させてもらった。

当時住んでいたのは世田谷区喜多見で、最寄り駅の成城学園前駅まで徒歩20分で割ときつめの坂道が続く場所なのに、家賃はそこそこ取る優良物件だった。

当時付き合っていた彼女は大阪におり、当初は遠距離恋愛をしていたが、やがて彼女も東京の企業に就職して上京。それからは千葉県船橋市との中距離恋愛になった。当時の自分は経済的にも人間的にも非常に完成度が低く、今でもよく言われることだが、今までよく一緒にいてくれているものだと思う。

東日本大震災が起きたり、部屋に空き巣が入ったり、ニコニコ動画に「歌ってみた」やゲーム実況を投稿したり、経済的に終わりかけたり、いろんなことが盛りだくさんな4年半だった。

その後、転職と引っ越しが起きた。

次の会社には、2013年2月までいた

SIer*2に転職した。いわゆる3ヶ月研修を経て現場に投入された元請けの、自分より給料だけが高く技術力は低い人たちの指示に従って、指示通りに誤ったせいで謝罪をし、指示出し君たちだけが次の現場へステップアップ、というような1年間だった。

一方で、引っ越し先は練馬区谷原にした。同時に彼女との同棲を始めた。

上記のような仕事環境に向けて、毎日練馬から淡路町(40分)、または品川(50分)、時には辻堂まで(1時間50分)満員電車で通勤しており、もともと電車が好きでない性質も手伝って、すぐに心がすさんだ。同棲生活も良いものとは言えず、それなりに楽しさはあれど、全体的には苦労をかけてしまっていた。

彼女に背中を押され、自分でもこのままではいかんと思い、転職を決意した。運が良かったこともあり、すぐに次が見つかった。

退職日を決めて届けを出すと、これまで本社で新聞を読むだけが仕事だと思っていた新幹線通勤の部長との面談が入り、会議室では目の前で堂々と労働基準法違反が繰り返された。しばらくして社長も現れた。以前の酒の席での経験から、社長はもっと話が通じると思っていたので、もう少し踏み込んで話してみた。結果はやはり、労働基準法違反の提示だった。

とはいえ彼らの言葉に法的な強制力がないことはわかっていたので、そのままこちらの要求を告げ、円満に有給休暇を消化して退職した。時季変更権という言葉も覚えた。

次の会社には、2016年9月までいた

転職してDeNAに入社した。

今からすれば、きっと期待半分・人手不足半分だったろうと思う。入社してすぐに自分の実力と求められるものとのギャップに気がついたが、そのぶん目標が明確になり、結果としてここで受けた恩恵はとても大きかった。この会社では「ポジションが人を育てる」とよく言われており賛否両論を生んでいたが、自分の場合は図らずもその通りだった。

技術面以外に、「善良な人たちの中でチームで連携して仕事をすること」を覚えた。そのためにどうすればいいか、どうあるべきかも学ぶことができた。技術よりもこちらのほうが重要だったかもしれない。それに、多くの友人にも出会えた。

彼女と結婚したのもこの頃だった。その後、電車通勤が煩わしくなり、渋谷まで徒歩通勤ができる代々木に引っ越した。代々木の町は渋谷からも新宿からも近く、明治神宮も代々木公園もあって、生活がとても充実したように感じる。騒がしさも、当初は気にならなかった。

いろいろあって、3年半後に転職した。

そして今

DeNAでの縁で声をかけてもらい、今はまたベンチャー企業にいる。はやいもので、もう4年が過ぎた。

ここでは前職以上にいろんなことをしている。社内のネットワークを見直したり、餃子を焼いたり、虫を駆除したり、肉球を押すとたのしい反応があるデジタルサイネージを作ったり、ポスターを手売りしたり、壁(物理)を作ってもらったり、その中でまた餃子を焼いたり、日本語について考えたり、ペットの命を救う手助けをしたり…。

転職当初は渋谷に職場があったので、徒歩通勤を継続した。途中からは代々木の喧噪に耐えられなくなり、練馬に戻った。それから電車通勤しているうちに体調がおかしくなってきて、自宅作業をする許可を得た。そうこうしているうちにコロナが来て、世の中のほうがこちら側になった。

コロナで自宅作業をしているうちに、そもそも家から出かける頻度が非常に低いことや、14年間暮らしてみて東京にながく住みたい場所が見つからなかったこと、家賃や不動産の価格が高いことなどが気になり始め、思い切って関西に引っ越すことにした。

会社には引っ越しを決めてからいきなり相談したが、案外すんなりだったので、いろいろとすごいなと感じた。

自分にとって東京はなんだったか

上京する前、東京は不思議に満ちた場所だった。それだけにセレンディピティに対する期待が大きかった。実際そこは、東京の路線の乗り換えのように、目的に対する選択肢が数限りなくある場所だった。

そして同時に、「その選択肢から最良を選ばなければならない」という呪縛のようなものを感じる。最良でなかったとき、「損をした」と思ってしまう。これがとてもしんどかった。「べつに何かを取られたわけではない」ということに気付けると、すこし楽になれた。東京は落ち着ける場所ではなかった。

上京する動機は冒頭に書いた通り仕事だった。居続ける理由も仕事だった。その理由が東京を強いることがなくなったので、離れることにした。つまるところ自分にとっての東京とは、仕事の場所なのかもしれない。

関西に住む動機はあまりない。たまたまと言っていい。自分たち二人にとって、区切りという意味もある。区切ったあとに何が起こるのか、今度は東京の外に不思議を期待しているところもある。

少なくとも、東京での14年間の有象無象の不思議は、自分たちを大きく変化させることに成功した。これからの数年間もきっと、変化の連続だろう。それでも一緒にいたいと思える相手が得られたことが、東京暮らしの意味だったということにする。

*1:この会社はもう当時の形では残っていない

*2:この会社は今でも存在するので注意

短歌の話

2019年の末ごろから、1日1首というルールで短歌を作っています。今日(1月19日)でちょうど119首目。ここまで作ってきて、なんとなく思ったことを。

良い短歌

良い短歌ってどういうもののことなんでしょうか。自分の好みの短歌を仮に「良い短歌」とするなら、「読み手が追体験し、感情を共有できるもの」だと思っています。

読み手が追体験し、感情を共有できるもの

短歌は文字数が31文字と限られているので、意味や意図を説明し尽くすことができません。読む側もそれはわかっているので、自ずと言外のそれらを読み取ろうとするものだと思います。

シモーニデースの曰く「絵は言葉を使わぬ詩、詩は言葉で描く絵である」、ホラーティウスが詩論で曰く「詩は絵のごとくに(ut pictura poesis)」。これらの言葉は、詩が読み手の頭の中でイメージを描くものだということを示しているのでしょう。つまり、言外の意味や意図は、そのイメージの中、あるいはそれを見る主人公(読み手)の感覚の中にあるべきものだと思います。

このイメージが得られるような文は、かつて修辞学の述べた「エクフラーシス(ekphrasis)」すなわち視覚筆写であると言えます。それがデュナミス(dynamis)として成り立てば、読み手に主人公を理解させ、主人公に寄り添った追体験の結果、読み手が特定の感覚を得られる状態、つまりエネルゲイア(energeia)が成立する。言外の意味や意図を読み手に感じてもらうには、この状態を作り、イメージと追体験と共感を得る必要があります。

なかみがだいじ

ただ、それだけで良い短歌として十分かというと、きっとそうでもありません。たとえば短歌を作ることがお客にラーメンを提供することなのであれば、いろんな準備を経てラーメンを食べてもらえるまでが、短歌で言う追体験や共感が得られた状態を指すはずです。食べてもらうところまで行ってやっと、よりおいしいラーメンを食べてもらうこと、つまりより良いイメージや追体験や共感を持ってもらうことについての追求ができる。そして真に重要なのはその部分だと思います。

では良いイメージや追体験や共感とはそれぞれ何なのでしょうか。良いイメージは「エクフラーシス(視覚筆写)によりもたらされるもの」と書きましたが、つまりはそのままギリシア語源の通り、「はっきり述べる」ということだと思います。明確に述べられるからこそ、読み手は安心して具体的なイメージを掴むことができます。

具体的なイメージは、より具体的で鮮明な追体験を行うことを読み手に保証するものです。同じイメージを共有することで、読み手は、自分自身を主人公にしたり、あるいは書き手を主人公とした情景を頭の中に描くことができます。

それは実際の書き手や書き手の見たものとはほとんどの場合で異なりますが、視覚情報すべてを正確に叙述することは非常に困難で、31字ならなおのことです。それに、良い共感のために、書き手と読み手のイメージが完全に一致している必要はあまりありません。詩によって得られる共感は、あくまで読み手の想像する共感であって、その答え合わせをする機会はあまりなく、それでいて「良い短歌」は成立しているからです。

きっとそれが短歌

書き手は、31文字の言葉だけを自分の支配下に置いています。そして読み手側はそれを受け取って、自分の頭の中にイメージを思い浮かべる。そのイメージや追体験が二人の間で共通しているかどうかは別として、二人の間にうまれた感情が一致したり、近似したりするとき、そこに短歌の書かれる意味がある。それが短歌を通じての共感だと思います。

そして共感の中でも良いとされるのは、読み手にとってありふれていないもののことでしょう。読み手にとって今までにない感情、懐かしい感情、着目せず見過ごしてきた感情を呼び起こすような短歌が、良い短歌なのではないでしょうか。

そういう短歌が作れるようにもう少し続けてみて、そのうち気が向いたらどこかに発表してみようと思います。それでは。